崩恋〜くずこい〜 01話

「私と付き合って下さい」
 夕陽が差し込む空き教室に、少女の上擦った声が響く。
 声の主である少女は頬を赤く染めて、濡れた瞳で正面の少年を熱っぽく見ていた。
 その視線を受け止める小柄な少年、如月椎(きさらぎ しい)は何度か瞬いた後、一拍遅れて動揺した様子で視線を泳がせた。
 二人の間に沈黙が落ちた。
 外から響く演劇部の発声練習が妙に大きく聞こえた。春には羞恥心が混じっていた発声練習も、初秋を迎えた今では良く響く大声になっている。
 演劇部の発声練習に進歩が見られたように、椎もまた入学当初から部活と学業に励んできた。小柄でありながら、美少年と呼んでも差し支えない容姿に加えて、部員に恵まれないテニス部でひたむきに汗を流す椎は、女子にはそこそこ人気がある。
 そして今、椎はずっと片思いをしていた水無月優香(みなづき ゆうか)から、理想的な告白を受けていた。
 相思相愛。
 実らない片思いと思い込んでいた椎は、突然の告白に返す言葉を失っていた。
「き、如月君?」
 優香が真っ赤になった顔で、上目遣いに覗きこんでくる。
 そこで椎は我に帰り、小動物のように小さく肩を震わせた。
「えっと……本当にボクで良いの?」
「う、うん。き、如月くんが、良いの」
 囁くような小さな声で、しかしはっきりと優香は思いを口にした。
 椎は胸の奥から温かい何かが滲み出すのを感じながら、大きく息を吸った。
 心臓が早鐘のように打っていた。
「あの、ボクも水無月さんのこと、ずっと前から好きでした。ずっと気になってて、でも相手にされないだろうなって思ってて。だから、ボクからも改めて言います。好きです」
「え、あ、じゃ、じゃあっ!」
 椎の返事に、優香が嬉しそうに距離を詰めてくる。
「うん。末永くよろしくおねがいします」
 椎はにこりと笑って、冗談っぽく頭を下げた。
「あ、あの、よろしくおねがいしますっ!」
 優香も釣られるように頭を下げる。
 その様子がおかしくて、椎はクスっと笑った。
 優香も緊張がとけたようにクスクスと笑う。
 そして、彼女はぐったりと近くの机にもたれかかった。
「良かったーっ! 今日一日中、告白のことばっかり考えてて何もできなかったよ。ノートなんて全部白紙だったし」
 優香の脱力した様子に、椎はクスっと笑って鞄を手に取った。
「あ、ノート見る?」
「今日は勉強する気分じゃないからやめとく。あー、これで如月くんと恋人同士かぁ。あ、如月くんって呼び方も他人行儀で嫌だね。椎くんって呼んで良い?」
「うん。いいよ。えっと、じゃあ、優香、ちゃんって呼んで良いかな?」
 慣れない呼び方に詰まりながら言うと、優香は花が咲いたような笑みを浮かべた。
「うんっ。よろしくね、椎君!」
 それから思い出したように、もたれかかっていた机から立ち上がる。
「椎君って今日は部活あるの?」
 その言葉に、椎も慌てて壁時計に視線を投げた。
 授業が終わってからかなりの時間が経っていた。
「あ、もう行かないと!」
「ね、今日くらいはサボっちゃわない? 色々話がしたいな」
 ボソッと優香が言う。
 しかし椎が困った表情を浮かべると、両手を振って慌てて取り消した。
「あ、冗談だよ! ごめん! 帰る方向も逆だもんね。また夜に連絡……電話するから!」
「うん。部活終わったらすぐに電話するね。じゃ、部活あるから本当にごめんっ!」
 椎は最後に手を振って、空き教室から飛び出した。
「がんばってねー!」
 後ろから優香の声。
 心臓が早鐘のように鳴っていた。
 誰もいない廊下を走りながら、何度も優香の顔を頭に思い浮かべる。
 恋人。
 もっと早く告白しておけばよかった、と思いながら階段を下りて校庭に繋がる戸口へ向かう。
 夕焼けに照らされた校庭。その端に人影のないテニスコートが二面広がっている。
「あれ?」
 椎は首を傾げ、上靴のままテニスコートに向かった。
 しかし、いつもいるはずの友人が誰もいない。
「遅い」
 不意に、横から棘のある声をかけられた。
 びくん、と肩を震わせて反射的に振り向くと、テニスコートを囲むネットに背を預けて座る神無月弥生(かんなづき やよい)が不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「遅れてごめん! 他の皆は?」
 謝りながら駆け寄ると、弥生はジャージについた土を払いながら立ち上がった。それに連動するように彼女の綺麗な黒髪がはらりと落ちる。
「秋村が来てたけど、椎が来ないから帰ったよ。後はバイトとサボり」
 椎の所属するテニス部には部員が四人しかいない。そして、マネージャーである弥生を入れて五人。
「せっかくだから飲む?」
 弥生はそう言って、お茶の入った容器を指差す。
 お茶を用意するのはマネージャーの仕事の一つだ。椎が来ると思ってずっと待っていたのだろう。
「うん。ほんと、ごめんね」
 弥生が紙コップを取り出すのを眺めながら、もう一度頭を下げる。
 別に気にしてない、と弥生は無表情に言って、コップにお茶を注ぐ。
「で、何で遅れたの? 先生に仕事でも押しつけられた?」
 弥生の感情の見えづらい瞳が、椎を見上げるように動く。
 椎はにこりと笑って、それからわざとらしく胸を張った。
「えっとね、それが何と! 女子に呼び出されて告白されたのです!」
 カサ、と小さな音とともに弥生の手からコップが草の上に落ちた。
 中に入っていたお茶が草むらに広がり、小さな水たまりを作っていく。
「わ、弥生、大丈夫?」
 椎の言葉を無視するように、弥生の顔がゆっくりと椎に向けられる。
 夕陽を反射した彼女の瞳が燃えるように赤く染まっていた。
「ねえ、誰に告白されたの?」
 抑揚のない声で、弥生は椎をじっと見つめたままそう言った。
 感情が全て削ぎ落とされたような声と顔色だった。
 何故か責められているような気分になり、先程までの浮ついていた気分が霧散していく。
 椎は動揺したように瞳を揺らし、弥生の機嫌をうかがうように辿々しく答えた。
「あ……あの、同じクラスの水無月さん……だけど……えっと、弥生?」
「へえ……それで、椎は何て答えたの?」
 弥生の瞳の奥で、暗い何かが蠢いていた。
 一切の嘘を許さないような威圧的な視線だった。
「あの、ボクも前から好きでしたって……」
 弥生は何も言わなかった。
 沈黙の中、彼女は転がったコップをそっと拾い上げ、それからお茶の入ったタンクを片手で持ち上げた。
「帰ろっか」
 小さく呟いて、弥生は容器を持ったまま洗い場へ歩き始める。
 椎は慌ててその後を追った。
「や、弥生?」
 椎の困惑した声を無視するように、弥生はずんずんと歩を進め、洗い場に辿りつくと無言で容器を洗い始めた。
 椎はその横で困ったように弥生の顔を覗きこんだ。
「や、弥生? ごめん。告白で浮ついて遅刻した事怒ってる? 今度から遅れる時は連絡するね」
 弥生は何も答えない。
 椎は一歩下がって息をついた。
 傾いた夕陽が洗い場を照らし出し、遠くで吹奏楽部が奏でるメロディが響く。
 不意に、水道の水が止まった。
「……部室、行こっか」
 弥生は短くそう言って、濡れた容器を手に校庭の端にある部室へ向かって歩き始めた。椎も黙って彼女の続く。
 校庭では野球部が雑談していて、遠くでは廃部の危機に晒されているラグビー部が走り込みをしていた。
「ねえ」
 背を向けたまま弥生が口を開く。
「水無月さんのこと、好きだったの?」
「う、うん。前からずっと、可愛い人だなって」
 素直に答えると、弥生はそれっきり黙り込んだ。
 沈黙が続いたまま、クラブハウスに辿りついた。テニス部の部室は一番奥にある。弥生が扉を開けて中に入り、椎もその後に続いた。
 部室は五平方メートルほどの空間で、壁際には古びた青いベンチが置いてある。その隣には棚に予備のボールが積まれ、床には誰かの荷物が散らばっている。
 あまり綺麗な部屋ではない。
「椎は」
 弥生が軋み声を上げる扉を閉めながら、軽い口調で言う。
「今まで誰かと付き合った事あるの?」
 扉を閉め終えた弥生は、次は窓際に足を進め、色褪せたカーテンを閉めた。部室が一気に暗くなる。
「全くないよ」
 弥生から何か得体の知れない雰囲気を感じ、椎は電灯をつけようと壁際のスイッチに向かいながら答えた。それを制するように、弥生が椎の腕を掴む。
「椎。そこのベンチに仰向けで寝転がって」
 弥生は無表情にそう言った。
 暗がりの中、彼女の瞳だけが妖しく光っていた。
「ど、どうして?」
 椎が困惑の声をあげると、弥生は無言で椎の肩をドン、と押した。不意打ちに踏鞴を踏んで、ベンチに座り込む形になる。
 椎は息を飲んで、弥生を見上げた。突然の弥生の行動に、理解が追いつかない。
「や、弥生?」
 弥生は答えず、ゆっくりと椎に近づいて、それから一度警戒するようにカーテンで閉め切られた窓に目を向けた。
 それからすぐに視線を戻し、椎に覆い被さるようにしなだれかかってくる。
 何が起きたのか、理解できなかった。
 弥生の唇が押しつけられ、彼女の柔らかい身体が圧し掛かってきた。
 椎は耐えきれず、そのままベンチに倒れ込んだ。それを待っていたように、弥生が上から覆い被さり、椎の両腕を拘束するように抑え込む。
 椎はくぐもった声を上げると同時に、弥生を突き飛ばそうとした。しかし、それを察知したように弥生が右手の拘束を解き、空いた手を振り上げた。
 弥生の手が振り下ろされ、鈍い音と鋭い痛みが頬に走る。一拍遅れて、殴られたのだとわかった。
「騒いだらまた殴るよ」
 暗がりに、弥生の低い声が響く。
 今まで聞いた事がない威圧的な声だった。
「弥生……?」
 何が起きたかわからないまま、弥生の手が椎の身体を撫で回し始める。
「や、弥生……」
 弥生が何をしようとしているのか、朧気に理解する。
 同時に、何故、という疑問が噴出した。
「弥生、まって、何を――」
 弥生の身体を跳ね除けようと、みじろぎする。
「動かないで」
 弥生の手が再び振り上げられ、次は腹部に振り下ろされた。
 躊躇のない攻撃だった。
 椎は呻き声を上げて、お腹を抑えながらベンチに倒れこんだ。
「すぐ終わるから」
 耳元で弥生はそう囁いて、再び唇を落とした。
 柔らかい感触。
 それから、口内に何かが侵入してくる。
 抵抗しようと弥生の肩に手を当てると、再び弥生の拳が腹部に撃ち込まれた。
 激痛に呻き声をあげようとしたところを、弥生が口で塞ぐ。
 何が起きているのか、わからなかった。
 薄暗い部室の中を、獣のような弥生の呼吸音が支配していた。
 荒々しく侵入してくる彼女の舌と、容赦無い打撃が、椎の抵抗意識をみるみるうちに削ぎ落とした。
「好きだよ、椎」
 全ての疑問に答えるように、弥生の低い声が密室に木霊した。
 そこからの流れを、椎はよく覚えていない。
 ただ、その行為には苦痛が伴った。
 弥生はぐったりとした椎の上で、貪るように腰を動かしていた。
 女性は初めての時に痛い思いをする、という知識はあったものの、男も同様に痛みを覚える場合があることを椎は初めて知った。
 それでも、機械的な終わりがやってくる。
 全てが終わった後、激しい呼吸音が暗闇の中に満ちていた。
 弥生は満足そうに椎を見下ろして、椎から離れた。そして、何事もなかったようにジャージに着替え始める。
 椎はベンチでぐったりと仰向けになったまま、そのまま彼女が無言で部室を出て行くのを見送ることしかできなかった。古びたドアが錆びた音を立てて、光のなくなった世界を映しだしていた。


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