崩恋〜くずこい〜 07話

「なんだか、夢みたい」
 手を繋いで並んで通学路を歩いていると、優香は幸せそうに笑みを零した。
「こうして椎くんと並んで登校できるなんて、ちょっと前だったら全く考えられなかった」
 繋いだ手が、ぎゅっと強く手を握られる。
「私ね、ずっと椎くんのこと遠くから見てたの。教室でもそうだし、テニスやってるところもそう」
 優香の笑みに、椎は曖昧な笑みを返した。
 頭の中には、薄暗い部室で肢体を絡ませてくる弥生の体温と、息遣いがリフレインしていた。
 乱暴な弥生の手と違って、優香は控えめに手を重ねているだけで、その違いに罪悪感のようなものが募った。
 大通りに出て、赤信号で立ち止まる。
 椎は優香の横顔をチラリと見て、それから迷うように口を開いた。
「明日、休みだよね。優香ちゃんは予定とかある?」
 優香が驚いたように振り返る。それからすぐに笑顔で、ううん、と頷いた。
「じゃあ、良かったら一緒にどこか遊びにいかない?」
「うん!」
 彼女は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに何度も頷く。
 その様子に椎は苦笑混じりに言葉を続けた。
「と言っても、まだ全然プラン考えてないんだけど」
「じゃあ、一緒に考えようよ。椎くんの好みとか、色々知ることができるし一石二鳥だね!」
 信号が青に変わる。
 椎は微笑んで、優香と手を繋ぎ直して横断歩道を進んだ。
 学校に近づくと、椎たちと同じ制服に身を包んだ生徒の姿がちらほらと見えるようになった。その中に見知った顔を見つけ、椎は声をあげた。
「空(そら)先輩!」
 数メートル先を歩いていた長身の男が振り返る。
 橋原空人(はしはら そらと)。テニス部に所属する唯一の三年生で部長を務めている。
 空人は椎を見るなり、意外そうな顔を浮かべた。
「よお。久しぶりだな」
 それから、隣の優香を見て眉を寄せる。
「その子、彼女か?」
「え、あ、はい」
 反射的に繋いだ手を離そうとすると、優香の手に力が入った。
「はじめまして。椎くんとお付き合いしている水無月優香といいます。テニス部の部長さんですか?」
 上級生相手に物怖じする様子もなく、礼儀正しく頭を下げる優香を空人が観察するように見る。
「ああ、そうだが……」
「椎くんの練習してるところ見学させて貰う事が度々あると思います。よろしくお願いします」
 優香はそう言って、ニコニコと空人を見上げる。
「……俺は殆ど部活に顔を出してない。上級生の目をわざわざ気にする必要はないぞ」
 空人はそこで一度言葉を切って、じっと椎を見据えた。
「それよりも意外だな。別の子と付き合うと思ってた」
「え?」
 問い返すと、空人は意味深な笑みを浮かべて、何でも無い、と首を横に振った。
「それより、今日こそは部活来るんですか?」
「すまないが、今日も休ませてもらう。スタジオの予約入れてるんだ」
 空人は微かに身をよじり、背中に担いだギターケースを見せた。
「わかりました。傑にも伝えておきます」
「いつも悪いな。俺はどうせもう引退だ。二年のお前らが好きにやればいい」
 空人は最後に優香に目を向け、思い出したように言った。
「少し頼りない後輩だが、よろしく頼む」
「え? あ、は、はい」
 優香が慌てたように頭を下げる。
 空人は椎たちに背を向け、颯爽と校門に向かって歩き始めた。
 優香がその後ろ姿を見つめながら、何が嬉しいのかにやにやと笑みを浮かべる。
「少し頼りない椎くんをよろしくされちゃった。これで周りからも公認だね」
「……あんまり付き合ってる事を広げすぎると変な噂になるからほどほどにね」
「だめだよ」
 普段聞かないような、低い声だった。
 思わず、優香を見る。
 真顔の彼女と視線があった。
「ちゃんと交際してる事を周知していかないと、変な子が寄ってきたりするでしょ」
「え?」
「わたし結構嫉妬深いから、どんどん皆に言っていくよ。椎くんのこと、大好きだもん」
 それから、優香は照れ隠しのように椎の手を強く引っ張った。
「ほら、行こ。チャイム、鳴っちゃうよ」
 椎は頷いて、一緒に校門を抜けた。
 一瞬だけ、優香と弥生の表情が重なったような気がした。

◇◆◇

 昼休みの食堂。
 いつも通り二人分の席をとって、傑が食券を買ってくるのを待っていた。
 明日の優香とのデートに思いを巡らせる。
 初デートだ。軽く遊ぶ程度で良いだろう。
 カラオケでも行って、一緒にご飯を食べて。無難なコースを計画していく。
 不意に、後ろで誰かが立ち止まった。
 ぼんやりと振り返ると、椎を見下ろす黒い瞳があった。
 弥生だった。
「ねえ、ここ空いてるよね?」
 弥生はそう言って、椎の返答を聞く前に正面の椅子に腰を下ろした。
 椎は顔を強張らせて、無表情な弥生をじっと見つめた。
「弥生、何で、いつもは別の人と――」
「たまには良いじゃない。なに? 嫌なの?」
 遮るように、弥生が暗い眼差しを向けてくる。
 椎は言葉を失って、嫌じゃないけど、と目を逸らしながら小さく答えた。
「あれ? 今日は神無月も一緒なの?」
 怜奈の声。
 視線を戻すと、弥生の後ろに怜奈、優香、亜樹の三人の姿があった。
 怜奈は許可も取らず、それが当然のように弥生の隣に座り、それから優香を椎の隣に座るように促した。残った亜樹が弥生のもう片方の隣の席につく。
「あの、ごめん。もしかして部活のことで何か大事な話でもしてた?」
 優香がおずおずと言う。
 弥生はチラリと優香を一瞥して、別に大丈夫だから、と素っ気なく答えた。
 その反応に優香は安堵したように柔らかい笑みを浮かべ、椎とくっつくように並んだ。途端、弥生の黒い瞳がゆっくりと椎に向けられ、粘りつくように固定される。椎はその視線に気がつかなかった振りをして、何もないテーブルをじっと見つめた。
「今日は随分と多いな」
 後ろから声がした。
 隣の残った席に傑がやってきて、椎の分の定食をテーブルの上に置いた。
「今日もお邪魔してまーす」
 怜奈が傑に向かって手を振る。
 傑は、ああ、と短く答えながら割り箸を割って、椎と同じ定食を食べ始める。
 椎もそれに倣って、食事を始めた。
 隣で優香が弁当箱の包みを広げ始める。怜奈や弥生もそれに続いた。
「あ、それ、美味しそう」
 隣の優香が椎の定食を覗きこんで目を輝かせる。椎は箸を止めて、優香をチラリと見た。
「食べる?」
「食べる!」
 即答する優香に椎は小さく笑って、はい、とトレイごと優香の方に押し出した。優香が嬉しそうな顔で小さなコロッケを箸でつまみ、口へと丁寧に運ぶ。すぐに優香の頬が綻んだ。
「これ、お返し!」
 そう言って、優香が自分の弁当箱から卵焼きを取り出し、椎の皿に乗せる。その様子を見ていた怜奈が呆れたように言った。
「あーあ、見てられねえわ。妬けるねえ」
「予想以上に順調そうじゃん」
 亜樹が携帯を見ながらどうでも良さそうに相槌を打つ。
 それに乗じるように、弥生が表情のない顔で言った。
「今日の朝も、一緒に登校してたでしょ」
 椎は思わず弥生の顔をじっと見つめた。
 弥生の家は、椎の家から随分と離れたところにある。登校ルートが被るようなことは有り得ない。椎と優香が一緒に登校しているところを弥生が見ているはずがない。
 背筋に寒気が走った。
 やはり、今日もマンションの前で待ち伏せしていたのかもしれない。たまたま優香が来たから引き下がっただけで、ずっと見られていた可能性が高い。
 椎は動揺を隠すように、無言で目の前の定食に箸をのばした。
 早く昼食を片づけて、この場から逃れたかった。
「ね、明日のことだけど、椎くんはどこか行きたい場所ある?」
 椎とは反対に、ゆっくりと食事を続けている優香がにこにこと問いかけてくる。
 椎が何か言う前に、怜奈が食いついた。
「何? どっか出かけんの?」
「うん。初デート!」
 優香が嬉しそうに答えると同時に、正面の弥生が立ち上がった。
 椅子が床に擦れ、低い音が鳴り響く。
「ごちそうさま」
 弥生はそう呟いて、席を離れていく。
 それから、思いついたように振り返って、短く言った。
「椎。食べ終わったら部室に来て。話がある」
 椎は表情を凍らせて、視線を下げた。定食は、殆ど残っていなかった。
 周囲の喧騒が、遥か遠くのもののように感じられた。
「部活、大変だね」
 優香は何の疑いもなく笑いかけてくる。
「それでね。どこか行きたい場所ある? 何でもいいよ」
「……ごめん、まだ何も思いついてないや。考えておくね」
 椎はそれだけ言って、残りの昼食にゆっくりと手をつけた。
 思考が定まらず、何も考える事ができなかった。
「あ、うん。急に聞かれても困るよね。じゃあ、うん、適当にブラブラする?」
「そう、だね」
 椎はそれだけ言って、立ち上がった。そして、呟く。
「ごめん、もう行くね。ごちそうさま」
「え?」
「また電話するから」
 椎はそう言い残して、お盆を持って返却口に向かった。
 機械的にお盆を置き去り、そのまま出口へ踵を返す。
「椎、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
 元いたテーブルの近くを通り過ぎた際、傑が心配そうに声をかけてきた。
 椎は曖昧な笑みを浮かべ、大丈夫だよ、と告げた。それから食堂を出て、真っすぐ部室を目指す。
 昼休みのクラブハウスの周囲には、人の気配がなかった。
 一番奥の扉を開き、中に入る。
 暗闇の中で神無月弥生が待ちかまえていた。
 弥生は椎の姿を認めると同時に口端を吊りあげ、明かりつけて、と言った。扉の近くのスイッチを押すと、頼りない照明が椎と弥生を照らし出した。
「こっち来て」
 言われるがままに、椎は弥生の近くまで歩み寄った。
 弥生はじっと椎を見下ろし、唇を舐める。
「その場で跪いて」
 椎は何も言わず、黙って膝をついた。
 弥生は満足そうな笑みを浮かている。
 彼女の両腕がスカートの端を掴んで持ち上げた。自然とスカートが捲りあがり、健康的な太股が露わになる。
「や、よい?」
 椎は反射的に後ろへ下がろうと動いた。
 それを制するように、弥生の手が椎の髪を力任せに掴む。椎は思わず悲鳴をあげた。
「何をすればいいか、わかるよね?」
 諭すように、弥生が言う。
 そして、空いたもう片方の手でスカートをたくし上げる。
「ほら早く。時間ないんだから」
 椎は顔を歪ませながら、首を横に振った。途端、弥生の顔から表情が消える。
「いいから」
 低い怒鳴り声と同時に、髪が思いきり引っ張られる。
 嫌な音とともに、何本かが抜けるのがわかった。
 椎は両目に涙を浮かべ、懇願するように弥生を見上げた。
「今頑張れば、今日の放課後は許してあげる。明日の準備、必要でしょ」
 弥生はそう言って、人が変わったように優しく微笑んだ。
 明日の準備。
 その言葉に椎は動揺するように瞳を揺らした後、力なく項垂れた。そして、ゆっくりと弥生の太股に顔を近づける。
 クス、と上で弥生が笑みを零すのがわかった。そして、髪を掴んでいた手が離され、優しく頭を撫で始める。
 弥生の乏しい表情に、はっきりと嗜虐的な色が宿る。そして瞳には歪んだ執着心が浮かんでいた。


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