崩恋〜くずこい〜 12話
つう、っと服の中に忍び込んだ弥生の手が椎の胸部を撫でる。椎が視線を背けると、弥生は椎の上に覆いかぶさったまま、満足そうな笑みを浮かべた。
「椎のそういう仕草、すっごく可愛い」
椎は視線を逸らしたまま、無言を貫いた。
弥生が笑みを濃くする。
直後、肌に弥生の爪が食い込んだ。突然の痛みに、身体が小さく跳ねた。
「ねえ、知ってる?」
食い込んだ爪が一度離れ、彼女の冷たい指先が爪痕を撫でる。
額に汗が滲むのがわかった。
「私、椎のこと好きだよ」
「……それは、初耳だね」
上から覆い被さる弥生の瞳をじっと見ながら、椎は呟くように言葉を続けた。
「そういうのって、ちゃんと言葉にしないと、伝わらないよ」
そうだね、と弥生が気怠そうに微笑を浮かべる。
「でも、それを言葉にしてたとして、今と何か変わってたと思う?」
そう言って、弥生は胸元に顔を埋めた。
静かな息遣いとともに、弥生が柔らかい肢体を擦り寄せてくる。
次第に弥生の腕が絡まり、椎の身体を支配しようとするように組み伏せられる。それに伴い、弥生の息遣いが段々と荒くなるのがわかった。
肌に弥生の唇が吸いつき、衣服が乱暴に剥ぎとられる。
椎は目を瞑って、行為が終わる事を願い、全身の力を抜いた。
嫌になるほど甘ったるい香りが鼻をついた。
◇◆◇
「弥生って弁当が多いよね。母親が作ってくれるの?」
今ではないいつか。
神無月弥生にそんな質問を投げかけた事があった。
特に何の意図もない、何気ない疑問だった。
「作ってるのはおばあちゃんだよ。私、親いないから」
弥生は無表情にそう答えた。いつも通りの、どこか抑揚のない声。
親が、いない。
思わぬ返答に、次の言葉が見つからなかった。
口を噤んだ椎に、弥生がどうでも良さそうに言う。
「別に気にしなくていいよ。椎にとっては重い話かもしれないけど、私にとっては親がいないのが普通だったから」
そして、弥生の暗い瞳が椎に向けられる。瞳の奥には深い暗闇が広がっていて、そこからは何の感情も見出す事ができなかった。
「物心ついた時には亡くなってた。母親は肺癌で、父親は胃癌。二人とも、私にとっては知らない人でしかない。だから、こういうこと話しても何も思うことなんてないよ」
弥生はそう言いながら視線を外し、椎は、と短く言った。
「椎はいつも学食だけど、親は?」
「母さんは専業主婦だよ。父さんの弁当は毎日作ってるけど、僕が食堂の方が好きだから、そうしてもらってるだけ」
「へえ……」
相槌を打ちながら、弥生はどこか遠くを見つめる。
「そういう親の普通の夫婦生活見れなかったのは、残念かな。結婚とか恋愛って言葉が、未だによくわからない」
今ではない、いつかの話。
最後の弥生の言葉が、椎の中で妙に印象に残っていた。
◇◆◇
獣のような、荒い息遣いが響く。
身体の上から、弥生がしがみつくように手足を絡め、身体を擦り寄せてくる。
「そろそろ、時間だね」
そう言って、弥生はキスを落とした。それから、名残惜しそうに身体を起こし、椎から離れる。
「シャワー浴びないと。ほら、立って。一緒に浴びよう」
ぐったりとしていた椎は、言われるがままにゆっくりと身を起こした。それを手伝うように、弥生が肩を抱き起こす。
「結局、おしおき忘れちゃった」
弥生は一糸纏わぬ裸体のまま、気怠そうな薄い笑みを浮かべる。
「こうやって普通のベッドでやるの初めてだったもんね」
ほら、と弥生が手を引いてバスルームへ歩きだす。椎は弥生の背中をぼんやりと見つめながら、その後に続いた。
◇◆◇
「あの子は、学校でうまくやっていますか?」
過去に一度だけ、弥生の祖母と話をしたことがあった。
高校一年生の時だったと記憶している。
三日連続で学校を無断欠席した弥生を心配して家を訪ね、彼女の祖母と顔を合わせたのだ。
結局、弥生は風邪で寝込んでいるだけで、単純に学校への連絡を忘れていただけだった。椎がその事に安堵した様子を見せると、彼女の祖母は心配そうな顔で言った。
「あの子は、昔から感情表現があまり得意ではありません。友達と遊ぶ姿も、殆ど見たことがありませんでした。あの子は、ちゃんとクラスに馴染めていますか?」
その問いに椎は少し悩んだ後、嘘偽りなく答えた。
「……正直に言うと、馴染めているとは言えないです。愛想が良くないから、怖いっていう人もいます」
でも、と椎は柔らかい笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だと思います。感情表現が豊富って、良い事だけじゃないです。ネガティブな感情をすぐに表に出す人だっています。でも、弥生は、あの、弥生さんは絶対に人に悪意ある感情を見せないです。テニス部の仕事だって、嫌な顔一つせずやってます。少し一緒に過ごしたら、感情だって見えてきます。だから、大丈夫です。時間があれば、必ず馴染めると思います」
そして、椎は言った。
「少なくとも、僕は弥生さんのこと好きですよ」
祖母は少し意外そうな顔をした後、優しく微笑んだ。
「あの子は、良い友人を持ったようです」
それから、祖母は頭を下げた。白髪がはらりと落ち、その姿が酷く老いて見えた。
「あの子は、あまり人を頼りません。甘え方を、知らないんです。この年齢まで、ついに教えることが叶いませんでした。どうか、あの子をよろしくお願いします」
◇◆◇
シャワーの音。
黒髪を濡らした弥生が、肢体を絡めてくる。
「何だか、ずっとぼんやりしてるみたいだけど。いま、なに考えてるの?」
耳元で囁く弥生に、椎はゆっくりと目を向けた。
「うん……昔のこと」
「ふうん……」
興味なさそうに弥生は相槌を打って、それから残念そうに目を伏せる。
「サービスタイム終わる前に、出ないと。また明日……ね?」
また、明日。
いつまで、続くのだろう。
わからない。
バスルームの外で、着信音が鳴った気がした。電話に出る気には、なれなかった。
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