崩恋〜くずこい〜 15話

「昨日は邪魔が入ったけど」
 翌日の放課後。
 部室を訪れた椎を、いつもの気怠そうな笑みを浮かべた弥生が迎える。
「今日は、ね?」
 椎は何も言わず、いつも通りテニスウェアに着替える。
 そして、ラケットを持って部室を出た。その後に弥生が続く。
「今日は、どうしようか。前のおしおき、結局流れたままだったよね」
 耳元で弥生が囁く。
 椎は怯えるように小さく肩を震わせた。
 その反応に、弥生が満足そうにクスッと笑う。
「嫌なの? じゃあ、椎が望むなら今日は優しくしてあげる」
 椎は足を止めて、弥生に顔を向けた。
 弥生が嗜虐的な笑みを浮かべる。
「ほら、椎。嫌ならちゃんとおねだりしないと」
「……弥生は」
 椎は静かに弥生を見つめて、僅かに躊躇するように言い淀んだ。
「そういうことを繰り返せば、何でも自分の思い通りになると思ってるの?」
 弥生の笑みが、固まる。
 椎はそれだけ言うと、弥生から目を離して歩きだした。
「椎?」
 弥生の声。
 椎は、振り返らなかった。
 すぐにコートが近づいてくる。
 テニスコートを囲むネットの傍に、人影があった。
 椎に気付いたように、人影――水無月優香が笑顔で手を振る。
「椎くん! 頑張ってねー!」
 後ろから弥生の憎悪の籠もった声。
「水無月……今日も……」
 椎はそれを無視して、水無月の元へ足を進める。
「また見学来ちゃった! 迷惑じゃないかな?」
 優香が駆け寄り、上目遣いで首を傾げる。
「大丈夫だよ。ただ、見てても暇だと思うけど」
「うん、椎くんなら何時間見てても飽きないよ」
 優香が楽しそうにはにかむ。
 椎は笑い返して、それからコートの中に入った。中で待っていた傑が、ラケットを振るのが見えた。
「これじゃあ、今日は下手なところ見せられないな」
「頑張るよ」
 苦笑しながら答えて、サービスラインに向かう。
「先にサーブ権やるよ」
 傑がボールを投げる。
 椎はそれを受け取って、それから大きく息を吸うと、ボールを上方にトスした。初秋の太陽に、ボールが煌めく。
 小気味良い打撃音がコートに響いた。
 振り抜いたラケットがボールを叩き、向かいのサービスエリアへ吸い込まれていく。即座に傑が反応し、ボールを拾い上げる。しかし、それはネットを越えることなく、虚しい音を立ててコートに転がることとなった。
「フィフティーン、ラヴ!」
 椎は大声で叫んだ。
 コート横から、優香の歓声。
「やりづらいな」
 傑が苦笑しながらボールを拾いに行く。
「今日は負けないよ」
 傑からボールを受け取ると、冗談っぽくそう宣言した。
 傑が呆れたような顔をする。
「空回りして怪我するなよ」

◆◇◆

「ねえ、マネージャーの仕事で何か手伝うことないかな?」
 コートの外側の、校舎の影で座り込む弥生に優香はそう言った。
 弥生の表情に乏しい顔が、ゆっくりと優香に向けられる。
「別に」
 短い言葉だった。
 明確な拒絶を含んだ声色に、優香は困ったような苦笑を浮かべる。
「神無月さんって、一年の頃からずっとテニス部のマネージャーやってるんだよね」
 コートで走り回る椎の姿を眺めながら雑談を続ける。
 弥生は黙ったまま答えない。
「この前、テニス部の部長さんに会ったよ。三年生は殆ど部活に顔を出してないって言ってた。今って椎くんと秋山くんしか殆ど活動してないんだよね」
 ボールを打つ音が、リズムよく響く。
「それなのに、神無月さんは毎日サボらず部活に出てる。テニス、好きなの?」
 弥生は答えない。その目は、ずっとコートに向けられている。
「これは私の想像なんだけど」
 優香の声色が、やや硬くなる。
「神無月さんは、テニス部に好きな人がいるのかな」
 弥生の昏い瞳が、ようやくコートから離れて優香を見た。
「だったら何なの」
 抑揚のない声が、小さく零れた。
 優香の瞳が動揺したように、僅かに揺れる。
「そっか」
 呟いた言葉は、まだ暑さを残す初秋の空へ溶けていく。
 ボールを打つ音がメトロノームのように響く中、弥生は興味を失ったように優香から視線を外した。
 校庭では、野球部が大きな声を出して守備練習をしている。
 遠くの練習風景を眺めながら、優香はゆっくりと口を開いた。
「私ね、明日も見学にくるよ」
 弥生はもう、振り向かない。
「明後日も来るし、その次も来る」
 私は、と優香の声に力が籠もる。
「ずっと、椎くんのそばにいるから」
 弥生はもう、一切の反応をしなかった。その双眸は、テニスコートへ真っ直ぐと向けられて離れない。
 太陽が傾いていく。
 校舎の影が、テニスコートにいる椎を呑み込むように広がっていった。


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