崩恋〜くずこい〜 20話

「ごめんね」
 唇が離れ、弥生がそっと囁く。
 目の前の彼女の瞳は、しっとりと濡れていた。
 肩に絡まった彼女の腕に力が籠もり、華奢な身体が押し付けられる。
「それは、何に対して?」
 眼前の弥生に問いかけると、彼女は薄い笑みを浮かべた。
「これまでのことと、これからの事について」
 弥生はそう言って、椎の腰に腕を回し、ベッドへ向かって歩き出す。
「私は、これからも椎に酷いことをするから」
「……自覚、あったんだ」
 椎の呟きに彼女は微笑んで、とん、と椎を優しく突きとばした。
 ふわり、と柔らかいベッドが椎を受けとめる。
「この行為が酷いことになるのは、つまり、合意の上じゃないから」
 弥生が馬乗りになる。
 椎はぼんやりと弥生を見上げた。
「酷いことじゃなくなれば、いいのにね。私は常にそれを願ってるよ」
 暗闇の中、弥生が身体を寄せてくる。
 椎は目を閉じた。
 誰もいない家は、酷く静かだった。
 彼女の荒々しい息だけが、耳に届いた。
「ごめんね」
「どうして椎が謝るの?」
 弥生が小さく笑う。
 そして、唇が塞がれた。
 弥生の髪が、椎の頬をくすぐる。
 椎が身じろぎすると弥生はすぐに唇を離し、それから上気した顔を椎の首元に埋めた。
「椎の匂いがする」
 すぐそばで、吐息がかかる。
 椎は胸元の弥生の体温を感じながら、ふとそれを思い出した。入学当初、弥生に仄かな好意を抱いていた事を。
 テニス部の雑用を黙々とこなす彼女を、自然と視線が追っていた。
 他の女子と群れる事なく一人で過ごしている彼女が、どこか気になった。
 何となく、放っておけないと思った。クラスでもテニス部でも、いつも気にかかっていた。
 他人と距離を取ろうとする彼女に、よく話しかけた。孤立しないように気を配っていた。
 淡い何かが、心の中にあった。
 もしかしたら、それは初恋だったのかもしれない。
 けれど弥生はどこか鬱陶しそうな反応を見せていて、だからそれ以上踏み込もうとは思えなかった。
 その気持ちが育つ前に、椎はすぐに蓋をした。
 本当に短い間の出来事だった。
 どうにもならない感情は変わらない日常に溶けていって、いつの間にか忘れていた。
 一年と半年近くの時間は、長かった。
 気持ちが移ろうには、十分すぎる時間だった。
 本当に僅かな期間だけ抱いていた気持ちは、既に別の方向を向いてしまっている。
「みんな、何かに取られてしまう」
 ぽつりと、弥生が零す。
「椎だけは、取られたくなかったの」
 彼女の言葉に答える言葉を、椎は持ち合わせていなかった。
 一年と半年前ならば、違ったのだろう。
 別の未来があったはずだった。
 けれど、それは既に椎の手を離れてしまっていた。
 何もかもが手遅れだった。
 彼女への感情は崩れて、もう原型が分からないほどぐちゃぐちゃになってしまっていた。
 弥生の細い腕が、身体に絡まる。
 痛いほど締め付けられた。
「弥生、痛いよ……」
 彼女の瞳と視線が交差する。
 目尻から透き通った涙が筋を作って落ちるところだった。
 暗闇の中、彼女の嗚咽が長い間響き渡った。

◇◆◇

「今日の椎くん、何だかずっとぼんやりしてるね」
 部活の帰り道。
 顔を覗き込むようにして見上げてくる優香に、椎は足を止めた。
「えっと……そうかな?」
「そうだよ。ずっと考え事してるみたい」
 優香の瞳がじっと椎を見る。
「何か悩みごと?」
「……ううん。そんなんじゃないよ」
「……なにか悩んでるんだったら、相談してね」
「……うん」
 真っ直ぐ注がれる優香の視線から逃げるように視線を逸らし、無言で帰路を歩く。
 いつもの曲がり角にくると、椎は弱々しく笑って手を振った。
「じゃ、また明日」
「うん。またね」
 優香が去っていくのを見送ってから、ゆっくりと歩き出す。
 脳裏に昨日の事が何度も甦った。
 暗い家で一人佇む弥生の姿が、頭から離れない。
 零れ落ちる涙の跡が、忘れられない。
 暗闇の中で絡む弥生の肢体と体温。
 どこか泣き出しそうな表情。
 響く嗚咽。
 それらがぐちゃぐちゃになって、何度も何度も頭の中で再生された。 
「椎」
 風に乗って、声が届いた。
 俯いていた顔を上げると、正面に弥生が立っていた。
 彼女はいつもの気怠そうな顔で、にいっと笑った。
「水無月と別れる場所、いつもワンパターンだよね」
 一歩、弥生が踏み出す。
「だから、待ってたんだ」
 二歩、三歩と踏み込んだ弥生が、椎の手を握る。
「家、来てよ」
 椎の返事を待たず、弥生が歩き出す。
 引っ張られるように彼女の背中を追いながら、椎はじっとその後姿を見た。
「いいよ」
 遅れて零れた言葉に、弥生が足を止める。
 振り向いた彼女の瞳は、大きく見開かれていた。
 椎は足を止める事なく彼女の横に並び立ち、そのまま追い越した。
 それまでとは反対に、弥生を引っ張るように歩く。
「どういうつもり?」
 背後から弥生の低い声。
 椎は振り返らず、そのまま足を進めた。



 会話らしい会話もないまま弥生の家に辿り着くと、彼女は繋いでいたようやく手を離した。
 門扉を開け、奥の玄関ドアに鍵を差し込む。
「入って」
 先に入るように促す弥生の言う通り、先に玄関へ入る。
 暗闇が続く廊下が見えた。
 後から入ってきた弥生が電灯スイッチを押し、どこか無機質な印象を受ける蛍光灯が点灯した。
 椎は靴を脱ぐと、そのまま廊下の奥へ向かった。そして、迷わずキッチンに入る。
「……椎、どこ行くの」
 弥生の声を無視して、冷蔵庫を開ける。
 想像通り、中には大したものが入っていなかった。
「やっぱり、まともなもの食べてないんだ」
 振り返ると、困惑した顔をする弥生が立っていた。
「ご飯、作るよ」
「……どうして」
 どうして。
 そう聞かれて、すぐに答えが出なかった。
 冷蔵庫の隣にある米櫃の中身を確認しながら考える。
「ねえ、弥生」
 収納棚を開き、調理器具が揃っているか見ていく。
「今ならまだ、戻れるよ」
「……どうして、そんな事言うの」
 振り返る。
 薄暗い台所で、どこか所在なさげに立つ弥生がいた。
「戻ろう。前みたいな関係に。普通の関係に」
 弥生は何も言わなかった。
 ただ、黒い瞳で椎を見るだけだった。
「お婆ちゃんが亡くなってたこと、気づかなくてごめん。弥生が大変なこと、何も気づかなかった」
 足元の床が軋む音が、妙に大きく聞こえた。
「でも、僕が付き合っているのは優香ちゃんであって、弥生じゃないから。僕が友人として出来るのは、これくらいしかないから」
 優香の名前が出た途端、弥生の視線が剣呑なものになる。
「いらない!」
 弥生はそう叫んで、足を踏み込む。
「そんなこと、頼んでない! そんな優しさ、求めてない!」
 弥生の手が、椎の首元を掴む。
「私はッ! 私が欲しいのはッ!」
 至近距離で叫ぶ弥生はいつもの気怠い表情を投げ捨てて、今にも泣きそうな顔をしていた。
 過去に見たことがないほど感情を爆発させる彼女を前に、椎は動くことが出来なかった。
「私は、ただ……」
 最後は消え入りそうな声とともに、その手が椎の頬に添えられた。
 飛びつくように、彼女の唇が押し付けられる。
 細い腕が背中に回り、痛いほど締め付けられた。
 スカートから覗く足が、椎の足に絡まるように密着する。
 長い間、彼女はそうしていた。
 それから満足したように身体を離すと、荒い息を吐きながら頬を上気させて口を開いた。
「戻る必要なんてない。そんなこと、させない。最後に椎の隣にいるのは私なんだから」
 それはどこか予言めいた、確信を持った響きを持っていた。
 頬に添えられていた手が、ゆるりと首筋を撫でるように移動する。
「……寝室、行こうか」


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