偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ05話

 リヴェラの手を握りながら、考える。
 ここはヴェガの縄張りだ。
 グルのような突発的な侵入者は例外として、他の大規模な狩猟グループはいないだろう。あのヴェガたちの空腹が満たされているうちは安全だ。
 それとも、この考えは楽観的過ぎるだろうか、とも思う。
 派閥の者と共に何度か狩りに出た事はあるが、アルヴィクトラは狩りに詳しくない。獣たちの行動が上手く読めない。
 どちらにせよ、と荒い呼吸を繰り返すリヴェラに目を向ける。
 ここが危険な領域であっても、移動することは叶わない。無駄なことを考えている、と自覚する。
 腹部から全身に熱が広がり、身体がだるかった。思考もまとまらない。
 アルヴィクトラは周囲の暗闇をぼんやりと見渡した後、近くの土を掘り返し、拳ほどの泥団子を握った。そして魔力を注入し、凍結させる。額に当てると冷やりとして気持ちよかった。
 すぐに氷が解け、水を吸った団子が形を失っていく。手のひらにべったりと付着した泥を見つめた後、アルヴィクトラは傍らのリヴェラに寄り添うように横たわった。座っているのもしんどかった。
 少しだけ休もう。
 ゆっくりと目を瞑ると、急速に眠気が襲ってきた。


 眠ってしまったことに気付いたのは、夜明け前だった。
 意識が戻ると同時にアルヴィクトラは勢いよく起き上がり、周囲を見渡した。
 薄らとした明かりに森全体が照らされていた。小鳥のさえずりが木々の揺れる音と重なって耳に届く。
 隣ではリヴェラが静かに寝息を立てていた。
 額に汗が滲んでいる。そっと触れると、驚くほど熱かった。
 すぐにキートの枝を折り、中に溜まっていた水をリヴェラの口に含ませる。何度か咽こんだが、無事に飲み込めたようだった。
 キートの枝は残り少ない。アルヴィクトラは数少ない枝を折って口に含むと、よろよろと立ち上がって、キートの枝の代わりになりそうなものを探し始めた。
 眩暈がする。
 リヴェラほどではないが無視できない熱発があり、足元がおぼつかなかった。
 腹部の切創はリヴェラの魔術によって止血されているが、傷が治った訳ではない。体表組織の損傷はそのままだ。切り裂かれた肉の間から毒素が入ったのだろう、と推測する。
 自然と、呼吸が荒くなる。
 少し歩くだけで身体が悲鳴をあげるのがわかった。
 木々を掻き分けると、すぐにハーベストの実が見つかった。
 過去に狩りを行った時、案内人が水分摂取に有効であると説明していたことを思い出す。
 ただ、ハーベストの実は成人でも手が届かない場所に実る。小柄なアルヴィクトラでは摘み取る事ができない。
 アルヴィクトラはじっと頭上の木の実を見つめると、意を決したように右手を掲げ、そこに大量の魔力を練り上げた。
 手元が凍りつき、徐々に細長い棒状の氷が出来上がっていく。
 眩暈が強まり、身体から力が抜ける。
 アルヴィクトラが司る魔力特性は"凍結"である。任意の対象を凍らせる事は容易いが、何もない空気中に任意の形を持つ物体を創りあげるには、相当な量の魔力を必要とする。使い古された魔力は毒素となって抵抗臓器によって浄化されるまで身体内を巡り続ける。弱り切った身体で魔術を行使すれば、相応の負担が身体を襲う。
 激しい頭痛に襲われながら、アルヴィクトラは巨大な氷の剣を創りあげた。
 ゆっくりと持ちあげて、力任せに横薙ぎに払う。細いハーベストの木に切り込みが入り、林冠が大きく揺れた。
 額から滲んだ汗が、頬を伝って落ちる。
 氷の剣をもう一度振り抜き、ハーベストの木に叩きつける。
 強い衝撃とともに目の前が木が折れ、徐々に向こうへ傾き始めた。
 アルヴィクトラは荒い息を吐きながら、倒れていく細木を見つめた。周囲の木々に引っかかりながら、ハーベストの木が地面に横たわる。足元が小さく震えるのがわかった。
 倒れた木から複数の実を回収し始める。当面の水を確保できたことに安堵した時、強い耳鳴りがした。
 振り返る。
 人影が見えた。
 リヴェラではない。男の影。
 即座に周囲を見渡す。
 一人ではない。
 別の魔力源が感じられた。囲まれている。
 耳鳴りが強まる。
 平衡感覚が失われ、アルヴィクトラはその場に膝をついた。
 草木の間から一つの影が飛び出し、高速で距離を詰めてくる。
 アルヴィクトラは朦朧とする意識の中、術式を組み込み、魔力を放った。
 アルヴィクトラが手をついている草木を中心に、地面が円形に凍結を始める。
 鬱蒼と茂る草が凍りつき、その姿を鋭利な刃物の集団へと姿を変えていく。瞬く間に凍結領域が広がり、接近してきた影が針の山となった凍結領域に踏み込む前に足を止める。
 アルヴィクトラは、その隙を見逃さなかった。
 目の前で鋭く凍結した草を引き抜き、投擲する。影は瞬時に背後へ跳躍し、着地すると警戒するようにそのままアルヴィクトラへじっと視線を向けてくる。
 影は、若い男だった。黒装束に身を包み、その両手には短剣が握られている。
 アルヴィクトラは男の視線を受けとめ、口を開いた。
「帝国騎傑団序列八位、ケイヴィー・ソモン。確か、短剣での接近戦を得意とする戦士ですね」
 それから、と奥の茂みに潜む影に視線を向ける。
「帝国騎傑団序列十二位、アイヴィー・ソモン。司る魔力特性は"音"。貴方たち兄妹の噂は聞き及んでます」
 アルヴィクトラの言葉に、奥の茂みから黒衣を纏った女が姿を現す。
「陛下。変化が必要とされています。時代はもう、貴方を必要としていない。その首、頂きます」
 音の女魔術師アイヴィーはそう言って、右腕を頭上にあげる。
 途端、耳鳴りが強まった。不快感と吐き気が込み上げてくる。
 アルヴィクトラは氷の剣を強く握り、ゆっくりと近づいてくるケイヴィーを見つめた。
 視界が霞み、意識が朦朧とする。
 アイヴィーが放つ音響攻撃の影響なのか、熱発の影響なのか判断がつかない。ただ、急速に意識が揺らぎ始め、何度も遠のきそうになった。
 凍結領域の限界まで近づいたケイヴィーが静かに短剣を構える。
 凍結領域を広げる余力もなく、アルヴィクトラは荒い息を吐きながらその時が訪れるのを待った。
 不意に、風が吹いた。
 燃えるように熱い風だった。
 その風に乗って、凛とした声が響く。
「何を、している?」
 声のした方を振り返る。
 そこには、死人のように青白い顔をしたリヴェラ・ハイリングの姿があった。
 瞳は虚ろで、どこを向いているか分からない。高熱により、意識が朦朧としているのだろう。
 しかし、リヴェラ・ハイリングは確かに立っていた。しっかりと両足で大地を踏みしめ、ゆっくりとアルヴィクトラたちの元へ近づいてくる。そして、上言のように繰り返すのだった。
「お前達、アル様に何をしている?」
 その声からは、不気味なまでに感情が抜け落ちていた。
 朦朧としたアルヴィクトラの頭に、虐殺皇帝と呼ばれた父の声が再生された。


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