偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ14話

「狂おしいほどお慕い申し上げております」
 耳元で囁かれた言葉に、アルヴィクトラは目を見開いた。
 そっと背中に回された彼女の片腕。そして、アルヴィクトラを包むように密着した彼女の身体から逃げるように、アルヴィクトラは小さく身じろぎした。
「リヴェラ?」
「だから――」
 リヴェラが上からアルヴィクトラの顔を覗き込むようにして顔を近づける。
 彼女の赤い長髪がはらりと落ち、アルヴィクトラの首元をくすぐった。
「――私は単なる剣や側近としてではなく、アル様の全てを支える存在でありたいと考えています。皇帝としての意思決定の権利、そしてあらゆる苦悩を、全てを分かち合うことを願っていました」
 リヴェラの赤い瞳が、正面からアルヴィクトラを捉える。リヴェラの中を巡る血が押し出されるように、瞳が真っ赤に燃える。
「リヴェラ……」
 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように、じっと彼女の瞳に見入った。そして、抗うように視線を外す。
「なりません。以前にも言った通り、生贄が必要なのです。皇帝の血は途絶えなければなりません。子を成す事は、大きな混乱を後世に与えます。私は最後の仕事として、この血を残すつもりはありません」
 僅かながらの沈黙が落ちる。
 その間、アルヴィクトラを包むリヴェラの身体が離れることはなく、布越しに温かい体温が伝った。
「アル様、顔を上げてください」
 不意に、リヴェラが穏やかな声で言った。
「私の瞳を、正面から見てください」
 躊躇しながらも、アルヴィクトラはゆっくりと顔を上げた。
 すぐ近くにリヴェラの透明な赤い瞳があった。
「アル様。逃げる事なく、どうか正面からお答えください。例えば、子を作る事の出来ぬ女に人を愛する権利はないとお考えですか? それは違うはずです。子を成さずとも、愛し合うことは可能です。皇帝としての義務、責任を置いてアルヴィクトラ・ヴェーネという一人の人間の意思を私は聞きたいのです。私は、アル様のことを狂おしいほどお慕い申し上げております。アル様は、私のことをどう見ておられますか?」



◇◆◇



 リヴェラ・ハイリングは魔術師の家に生を受けた。
 両親は魔術によって未来を視ることを専門とする天測師だったが、生まれ持っての魔力特性が"貫通"であった為にリヴェラは戦闘技術に特化した魔術師として育てられることとなった。
 魔力特性"貫通"。
 その名の通り、リヴェラの放つ魔力はあらゆる物質を貫通する。使い勝手の良い魔力特性だったが、その反面応用性は乏しく、リヴェラはただひたすら術式の発動時間の短縮、そして精度の上昇に努めた。
 十三歳の時、リヴェラは戦闘に特化した魔力特性、そして将来性を買われて帝国軍の幹部候補生を育成する幼年学校への入校が認められた。
 軍に興味がある訳ではなかったし、幼年学校ならば学費が不要であるという経済的な理由があった訳でもない。ただ、戦闘に向いた魔力特性を持って産まれたのだから軍に入るのが当然だと何の疑問もなく思っていた。それが魔術師の家に生まれた魔術師としてのリヴェラ・ハイリングの価値観だった。
 リヴェラはそこで士官としての基礎を学びながら、魔術の鍛錬に励んだ。
 士官としての才覚には恵まれなかったが、リヴェラはそこで類稀な戦闘感覚を周囲に見せ付けた。
 魔力特性"貫通"を用いた見敵必中の砲撃戦闘術。
 その実力によって、リヴェラは若干十五歳にして帝国騎傑団への入団を果たす。
 周囲はリヴェラを祝福した。両親もリヴェラの魔術師としての才覚を認め、リヴェラは一人前の魔術師として生きる事となった。
 その矢先だった。
「リヴェラはどうして帝国騎傑団に入ったの?」
 帝国騎傑団に入団してから親しくなった魔剣士ナナシア・ブラインドに入団理由を尋ねられた時、リヴェラは咄嗟に答えを用意することができなかった。
「……戦闘向きの魔力特性を持っていたから」
「じゃあ、別に帝国騎傑団に入りたかった訳じゃないんだ?」
「ええ。私は、一つの到達点を見たい。魔術を極限まで極めればどこまでいけるのか、それを知りたい。騎傑団への入団はその一歩に過ぎない」
「ふーん。修行ってこと? 馬も役職もいらないわけ? ひたすら自己鍛錬に励む為に?」
「そう。私は魔術師としてそうありたい」
 きっと、それが答えなのだとリヴェラは自分に言い聞かせるように言った。
 それから、ナナシアに目を向ける。
「それで、そういうナナシアは何故騎傑団へ?」
「私は単純にお金だよ、お金。生きていく為にはお金が必要だからね。私は学もないし、世渡りが上手いわけでもない。でも、ちょっとした剣術と少しの魔術が使えた。だから、より良い待遇を求めて色々なところで雇われたよ。そしたら、いつの間にか天下の騎傑団に入れたってわけ」
 ちょっとした剣術と少しの魔術。
 ナナシアはそう言ったが、齢十八の魔剣士として彼女の戦闘技術は極めて高い水準に達していた。
 魔力特性"無痛"。
 彼女の魔力は己に向けることで、あらゆる苦痛を抑えることができる。戦闘中における負傷に彼女は影響されない。自身のあらゆる部位を捨ててでも冷静にそれ以上の打撃を相手に与えることを考えて彼女は戦闘の組み立てを行う。回復術の使える魔術師との組み合わせでは、相当厄介な性質となりうる。
「既に十分な給金が出ているでしょう?」
 リヴェラが尋ねると、ナナシアは苦笑して首を横に振った。
「金ってのはさ、いくらあっても足りないんだよ。魔物が吸い取っていっちゃうんだ」
 彼女はそれから話題を変えるように言葉を続ける。
「そうだ。リヴェラは給金何に使ってるの? もうちょっと服にお金使えばいいのに」
 そう言うナナシアが着飾ったところを、リヴェラは見たことがなかった。そして、彼女が着飾るところを見る機会はついに訪れなかった。




 ナナシア・ブラインドには親が居ない。
 彼女が六つの時、流行り病で倒れてしまった。農民だった両親は有効な治療を受けることができず、村人たちと一緒に焼かれてしまった。
 いつか、どこかで。そんな話がリヴェラの耳の届いた。
 幼い頃に体験した絶望を払拭できる力を、彼女は求め続けている。取り憑かれたように、ずっと探し求めてる。
 誰かが彼女の噂をした。
 馬鹿馬鹿しいと思った。
 リヴェラの知る限り、ナナシアはそんな感傷的な人物ではなかった。
 ナナシア・ブラインドは金を大事にしてはいたが、それは彼女が現実主義者だからだ。そう思った。
「ねえ、リヴェラ。私、やったよ。序列九位に格上げ。特案捜査の補佐官の役職が与えられるって」
 リヴェラが帝国騎傑団に入ってから一年後。リヴェラは十六歳に、ナナシアは十九歳になった。
 ナナシアはリヴェラを突き放すように序列を上げていった。誰もが目を見張る驚異的な成長速度だった。
 最年少であるリヴェラも序列を五十六位まで上げ注目を得ていたが、そんなリヴェラから見てもナナシアの成長速度は恐ろしく思えた。
 急ぎすぎている。駆け足すぎる。
 どこかで躓くのではないか。そう危惧した。
 実際、彼女の戦闘スタイルは危なっかしいものだった。
 魔力特性"無痛"によってあらゆる苦痛を受け付けない彼女は、自身の身体を餌に敵の隙を作り出して一撃で斬りおとしていく。
 あまりにも効率を求めすぎた合理的な戦闘方法は見ている者にある種の不安を覚えさせた。
「このまま順当に序列を上げれば最年少で序列一位を取れるんじゃない?」
 リヴェラが冗談交じりに言うと、ナナシアは真顔で頷いた。
「取るよ。私は、その為にここにいる」
 リヴェラは思わずナナシアの瞳を見つめた。
 決して大言壮語ではない。
 ナナシア・ブラインドにとっては極めて現実的な目標だった。



「ナナシア・ブラインドは金に汚い」
 一年前に巷で囁かれていた彼女への陰口は自然に消滅した。
 ナナシア・ブラインドは金の為と剣を振るうが、金に溺れることは決してなかった。
 帝国騎傑団に入ってから親しくしていたリヴェラも、ナナシアが豪遊するようなところは一度も見ることがなかった。むしろ、彼女の生活は質素なものと言えた。
 ナナシア・ブラインドは誇り高き騎士だった。
 金が貰えれば名誉に興味はない、と彼女がどれだけ言ったところでナナシア・ブラインドは帝国騎傑団における規範的な生活を送っていた。
「ナナシアは、結婚を考えていないの?」
 ある時、リヴェラはふとそんな話をナナシアに振った。
 特に意図があったわけではない。
 ただ、婚期を迎えた彼女にそうした兆候が微塵も見られないことが、友人として以前から気にかかっていたのだ。加えて十六を迎えたリヴェラにとって、婚姻は関心の高い行事でもあった。
「結婚?」
 ナナシアは何度か瞬きをすると、それから小さく笑った。
「私が?」
「そう。もう十九でしょう。良い相手いないの?」
 ナナシアは考え込むように目を瞑って、それから首を横に振った。
「全く。そもそも、私には親がいない。結婚しろとやかましく責め立てられることもないから気長に探すよ」
 自分にはできない生き方だ、とリヴェラは思った。
 魔術師として生まれ、魔術師と生き、魔術師の血を残す使命を帯びたリヴェラには、彼女のように自由に生きることができない。
 ただ、その自由と引き換えにナナシア・ブラインドには常に余裕がないようにも見えた。



 貴族の子女誘拐事件。
 それが起きたのはリヴェラが十七歳の誕生日を迎えようとする直前のことだった。
 リヴェラ・ハイリングは序列十二位になり、そしてナナシア・ブラインドは序列三位の地位を得ていた。
 帝国騎傑団の上級団員となった二人は、この事件を解決すべく創設された八名からなる救出部隊に組み込まれ、救出任務を与えられた。
 作戦会議の為、部隊は本部の一室に集められた。
 招集されたのは騎傑団の上級団員ばかりであり、リヴェラは安堵を隠せなかった。作戦の成功は約束されているようなものだった。
「まずは状況を説明しよう。誘拐組織の末端の人間を捕まえて、内部の連絡方法を聞きだすことまでは出来た」
 捜査の指揮を任せられている序列六位"閃光"の魔剣士リズ・ウィークがそう言って、会議室の机に一枚の紙切れを出す。
「読めない。何語だ?」
 騎傑団員の一人が顔をしかめる。
 リズ・ウィークは悪戯っぽく笑って、暗号だよ、と答えた。
「恐らくは単一換字暗号だろう。ヒューの魔力特性"超直感"を使ってこれを破る」
 ヒュー、と呼ばれた若い男が戸惑ったように前に出る。
「復号には頻度解析を用いるが、恐ろしく時間がかかる。ヒューの魔力特性を使って簡易的な換字表を作り、時間短縮を図ろうと思う。後は誘拐組織の末端に成りすまして連絡を行い、潜伏場所を特定していく」
 リヴェラは話を聞きながら、リズの手腕に感嘆の息を漏らした。
 騎傑団の団員は武芸に頼りがちだ。リズのように多角的なアプローチを提案出来る人間は少ない。
「解析はすぐに終わるだろうけど、暫くは潜伏場所の特定に時間を費やす事になる。事態に変化があればこちらから再び召集をかける為、常に居場所を明確にしておくこと。また、独自に行動することを厳禁する。以上、解散」
 その日はそれで解散となった。
 リヴェラはその足で酒場へ向かい、ナナシアの愚痴に付き合った。
「暗号だってさ。指揮権は序列によって与えられるもんじゃないとは理解してたけど、やっぱり経験と学ってのは簡単に超えられるもんじゃないね」
 ナナシアはそう言って、肉を噛み切る。
「剣さえ振るってたらどこまでも先にいけると思ってた。私、本当馬鹿だったよ」
 リヴェラはアルコールには手をつけず、ぼんやりとナナシアを見つめた。
「いけるよ。現にナナシアは既に序列を三位まで上げてるじゃない」
「そんなの、ただの数字でしかないでしょ。ちゃんとした役職を貰えないことには給金が上がらないよ」
 ナナシアはそう言って、ブドウ酒を飲み干す。
「ねえ。暗号って超直感持ちなら簡単に破れるのかな? 今度から暗号で困ればヒューに頼れば良い訳?」
 ブドウ酒を飲み干したナナシアが身を乗り出してくる。リヴェラは頷かなかった。
「暗号の種類による。今回使われていた単一換字暗号の解読に有効な頻度解析は文字の出現頻度から地道に元の文字と暗号文字を対応させていくから、この場合は超直感が役に立ちやすい。でも、他の暗号方式だと超直感じゃ太刀打ちできないんじゃない?」
「……魔術師って何でそういうどうでもいいこと知ってるの?」
「天測に必要だから一通りの学問を修める必要があるの。暗号方式については幼年学校でたまたま知る機会があっただけ」
 リヴェラはそれからチラリと視線を外して、でもこんなの戦闘には役に立たない、と小さく零した。
「ましてや序列が上がるわけでもない。私は頭席魔術師になりたいの。それから、魔術の果てにあるものを見たい。こんなの、役には立たない」
 リヴェラがそう言うと、ナナシアは薄い笑みを浮かべた。
「私とは逆だね。私は序列なんていらない。剣の道を究めようとも思わない。安定した役職と給金があればそれでいい」
 うまくいかないな。彼女の呟きが妙に耳に残った。



 誘拐組織の潜伏場所はすぐに割れた。
 召集がかかり、リヴェラとナナシアは本部の一室で指揮を執るリズ・ウィークの前に集った。
「決行は明日。向こうが拠点の移動を始める前に早期解決を図る」
 彼女はそう言って、自信に満ち溢れた笑みを見せる。
「突入は日が落ちてから。二階の窓からトルの魔力特性"飛行"で私とアイヴィーが突入し、魔力特性"音"と"閃光"で相手の目と耳を潰し先手を取る。次に"超直感"を持つヒューを先頭に制圧を開始。後は状況に応じて臨機応変に。以上。質問は?」
「一階の入り口は固めなくていいのか?」
 一人の男が声をあげる。
 リズは頷いて、説明を始めた。
「もう一度確認しましょう。この作戦の最優先事項は人質の救出よ。逃げ場を失った敵が人質を盾にする可能性を極力潰しておきたいの。必要があれば、相手に逃げ場があることを意識させて、上手く相手の行動をコントロールしてほしい」
 その場に集まった全員が頷く。
 それを確認したリズは満足そうに笑って、今夜はよく休んで体調を整えるように、と締めくくった。
「今日も軽く呑んでいく?」
 本部から出ると、すぐにナナシアが誘いの言葉をかけてきた。
「今日はそんな気分じゃない。またね」
 リヴェラが断りの言葉を返すと、ナナシアは小さく肩を竦めた。
 特別な理由があって断ったわけではない。そんな気分じゃない。本当にそれだけだった。
 リヴェラはこの選択を、ずっと後悔する事になる。



 作戦決行日。
 郊外に集った帝国騎傑団の八名は誘拐組織の拠点へ向かって闇夜を駆け抜けた。
 黒衣に身を包んだリヴェラは目標の屋敷が視界に入るとすぐに散開し、拠点周辺の様子を確認した。
 外に見張りは見えない。同様に散開していた帝国騎傑団の面々と合流し、そのまま拠点の壁沿いに一点へ集合する。
「トル。私とアイヴィーを上へ。その後、ヒューを先頭に突入、援護して」
 小声でリズが指示を出し、トルの魔力特性によって彼女とアイヴィーの身体がゆっくりと浮かび上がり、二階の窓へと飛んでいく。
 ガラスが割られ、リズとアイヴィーが窓から内部へ滑り込む。直後、閃光と轟音が内部から溢れ出した。
「始まった」
 誰かの呟き。
 トルの魔力特性によって、ヒューの身体が浮かび上がる。それに続くようにリヴェラの身体も浮遊感に包まれた。
「突撃するぞ」
 ヒューが小さな窓から身を捻って中へ入り込む。リヴェラもそれに続き、窓枠に手をかけると一気に中へ雪崩れ込んだ。
 真っ先に見えたのは、壁際によりかかる三人の女だった。
 いずれも腕を縛られ床に転がっている。誘拐された貴族の子女だと一目で分かった。すぐに視線を室内に走らせると、頭を失って倒れた死体が二つ。そして床に倒れこんだ一人の男に斬りかかるリズの姿があった。
「いきなり当たりの部屋みたいだね」
 最後の男を斬り捨てたリズが振り返る。
 リヴェラは頷くと、壁際に転がる女たちの元へ駆け寄った。
 三人の女のうち、二人は気を失っているようだった。後の一人はリズの放った閃光によって一時的に目が見えなくなっているようで、加えてアイヴィーの音響魔法によって聴力も一時的に低下し、錯乱状態にあるようだった。
「救出対象はこの三人で間違いないの?」
 支離滅裂な悲鳴をあげる女を見つめながら、室内に入ってきたシンシアがリズに確認を取る。
「事前に聞いていた身体的特徴と合致する。しかし、意思疎通が困難のため確定はできない」
 リズが答えた時、ドアの方から複数の足音が響いた。奇襲に気づいた者たちが集まってきたのだろう。
「どうする? 救出対象とともに即時撤退するか? この場を維持しながら捜索を続けるか?」
 ヒューが判断を仰ぐ。
 リズはすぐに、彼女たち三人を逃がした上で捜索を続行、と答えた。同時に部屋の扉が開き、剣を構えた男が飛び込んでくる。
「トル、レア、レノン。彼女たちを抱えてこの場を離れて。リヴェラ、ナナシア、ヒュー、アイヴィー、私と一緒にここを突破するよ」
 リヴェラは頷くとともに指先から熱線を放った。突入してきた男の首が呆気なく消し飛ぶ。
 それを合図にリヴェラたち八人は二つのグループに分かれて行動を開始した。
「ヒュー。先頭走って。あんたが適任だ」
 リズの掛け声とともに、"超直感"を持つヒューが片手剣を手に廊下へ躍り出る。
「来るぞ!」
 ヒューの叫び声を合図に、廊下の突き当りから三人の男が出てくる。
 いずれも短剣で武装した大柄の男だった。
「邪魔だ」
 ヒューが軽々と三人を斬り捨てて廊下を駆け抜ける。リヴェラもそれに続いた。
 階段を見つけ、ヒューが大きく飛び降りる。
 先は玄関ホールのようだった。
 ホール内には五人の男が散開し、リヴェラたちに気づいて剣を構える。
 その瞬間、ヒューが足を止めた。彼の首がゆっくりとリヴェラたちの方へ振り返り、何かを叫ぼうと口が開かれる。
 嫌な予感がした。
 時間が間延びするような、奇妙な感覚があった。
 リヴェラは咄嗟に反転し、転がるように後ろへ飛んだ。直後、破裂音と熱風がリヴェラを襲った。
 身体中に激痛が走る。
 無数の何かがリヴェラの身体を貫いた。
 苦痛と混乱の中、視線を走らせる。
 ホールの真ん中で燃焼する何かがあった。
 そして、その周りで倒れる帝国騎傑団の仲間たちの身体には無数の金属片が突き刺さっている。
 瞬間的な燃焼速度を利用して、無数の金属片を撒き散らす武器のようだった。
「ナナシア!」
 リズの叫び声。
 それに応えるように、血だらけのナナシアが立ち上がり剣をとる。
 魔力特性・無痛。
 あらゆる苦痛を感じない彼女は何事もなかったかのように剣を構え、向かってくる男たちの相手を始めた。
「アイヴィーとヒューの傷が深い。撤退する! ナナシア、時間稼ぎを」
 リズが血塗れの身体を引きずるようにして、ぐったりと動かないアイヴィーの身体をゆっくりと抱える。どうやら重要な臓器を貫かれているようだった。
 リヴェラも大きく息を吐きながら、倒れたままのヒューの身体を起こした。
 アイヴィーと違って急所をうまく防御したようだったが、至近距離で破片を浴びた為に出血が激しい。ヒューを抱えるとリヴェラ自身に突き刺さった無数の破片が食い込み、激痛が全身を襲った。歯を噛み締め、ホールの階段をゆっくりと上る。振り返ると、ナナシアが三人の男を同時に相手取っているのが見えた。そこに一階の廊下から複数の応援が駆けつけてくる。
「ナナシア。適当に切り上げて――」
 言いかけて、気づく。血濡れのナナシアの手元。剣を握る手首に大きな金属片が刺さっていた。
「ナナシア、その手――」
「早く下がって! 長く持たない!」
 ナナシアの叫び声。
 彼女の剣筋には力がなく、受け流すだけで精一杯のようだった。
 魔力特性"無痛"はあらゆる苦痛を打ち消すが、負傷による影響から逃れることはできない。
「リヴェラ、早く下がれ。ヒューを抱えたままではナナシアの邪魔にしかならない」
 リズが撤退を促す。
 リヴェラは頷いて、ヒューの身体を抱えたままホールの階段を駆け上がった。
 突入とは反対に、来た道を走って駆ける。
 抱えたヒューの荒い息が耳に届いた。
 全身の出血が止まらず、廊下に血の跡が残る。
「前に何かいるぞ」
 ヒューの小声が耳を打つ。
 リヴェラは立ち止まって前方を注視した。
 足音。
 直後、突入した部屋から一人の影が飛び出した。
「トル!」
 現れたのは、人質を連れて撤退したはずのトルだった。
「既に三人の人質は安全圏にいる。何があった? ナナシアはどうした?」
「向こうで足止めをしてる。トル、ヒューをお願い」
 リヴェラはそう言って、抱えていたヒューを押し付けるようにトルに預けた。困惑したようにトルがリヴェラを見つめる。
「お前はどうするつもりだ?」
「ナナシアの支援に向かって、可能であれば即時撤退する」
 リヴェラはそれだけ言って、すぐに反転した。
 廊下を駆け抜け、ホールを一直線に目指す。
 剣が衝突する音が大きくなる。
 ホールの階上に辿りつくと、階下ではナナシアが四人の男を相手に剣を振るっているところだった。その周囲には三つの死体。
 加勢しようと魔術の狙いをつける。
 しかし、ナナシアが邪魔になって撃ち抜くことができない。
「ナナシア! 下がって! 後は私がやる!」
 ナナシアがチラリと振り返るが、すぐに視線を前の男に向けて目の前に迫った剣を受ける。高い金属音がホールに鳴り響いた。
 一瞬、ナナシアの動きが止まる。
 その隙を突くように別の男が剣を振るった。
 ナナシアは剣を引きながら半身をずらして回避する。
 そこへ新たに別の男が切りかかり、ナナシアは手元へ引いた剣でそれを弾いた。
 息をする間もなく、次々と斬撃がナナシアを襲う。特にナナシアが相手をしているうちの一人が相当な手練の様子でナナシアが離脱する隙を上手く潰している。
 ナナシア単独での離脱は難しい。
 リヴェラが援護しようとホールへ下りようとした時、階下の奥にいた一人の男がリヴェラへ向かって瓶のような何かを投げた。反射的に反転し、床へ突っ伏す。
 刹那、階下から投げ込まれた何かが破裂し、金属片が無差別にばら撒かれた。伏せていたリヴェラの背中に複数の破片が突き刺さる。
 リヴェラは苦痛に喘ぎながら、無我夢中で身体を起こして真っ直ぐに廊下の方へ身を投げた。
 それから壁に背中を預けて自身の身体を確認する。二度の攻撃によって黒衣が血塗れになっていた。魔術によって一時的な止血を行い、それから廊下から顔を覗かせて階下の様子を探る。
 ナナシアは依然として四人の男の攻撃を受けて防戦一方になっている。その奥では一人の男がリヴェラ方を注視し、何かを手に持っている。
 見慣れない武器だった。
 何らかの圧力で瓶に入っていた金属片を一斉に周囲に撒き散らすようだが、具体的な射程が掴めない。
 リヴェラは荒い息を繰り返しながら、頭を回転させた。長引けばナナシアが持たない。しかし、未知の武器によって近づくことができない。
「考えろ。使い捨ての武器なら数に限りがあるはずだ」
 呟いて、それから廊下から顔を覗かせて階下を見る。リヴェラに気づいた男が瓶を構えるが、投げる様子はない。積極的な攻撃の為に無駄撃ちはしないようだった。目的はあくまでリヴェラを抑え込むこと。
 それならば、とリヴェラは半身を覗かせて右手を男に向けた。高速で術式を組み上げ、熱線を放つ。
 悲鳴。
 熱線が男の右足を撃ち抜き、その身体が崩れ落ちる。
 追撃をしようと再び狙いをつけた時、崩れ落ちた男が手に持っていた瓶を投擲した。それを確認すると同時にリヴェラは追撃を諦めて身を投げた。
 直後、階下から投げ込まれた瓶が破裂音ともに無数の金属片を撒き散らす。
 その暴力的な爆発にリヴェラは顔を歪ませて、全身に突き刺さった破片を見つめた。
 べったりと血に濡れた手で、大きい破片を抜いていく。痕が残るだろうな、とぼんやりと思った。
 応急処置を済ませてから、再び階下を覗く。
 リヴェラの魔術を警戒しているのか、先ほどまで床に崩れていた男は支柱の裏に移動していた。
 迂闊に攻撃できない。これ以上の破片を浴びれば、撤退行動に支障が出てしまう。
 逡巡しながら、ホールで戦闘を続けるナナシアに視線を移す。ナナシアは上手く力が入らないのか、剣筋が定まっていない。絶え間なく響く甲高い金属音がナナシアの体力を徐々に奪っている。
 長くは持たない、と思った。
 激烈な剣撃に耐え切れず、ナナシアが一歩後ろへ下がる。その隙を突くように四人の男たちはナナシアを挟むようにして大きく踏み込んだ。見る見るうちにナナシアが押され、彼女の身体が切り傷を負っていく。
 迷っている暇はない。
 リヴェラは覚悟を決めると、壁から飛び出して階上を駆けた。それを狙うように支柱から男が飛び出し、瓶を投擲する。それは放物線を描いて真っ直ぐとリヴェラの足元へ着弾した。
 爆発。
 至近距離から散乱した破片を全身に受けたリヴェラは全身が切り裂かれる激痛に耐えながら、血に濡れた右手を真っ直ぐと男に向けた。魔力特性・貫通を纏った術式が光速で組み上げられ、熱線として空気中に放出される。
 空気が切り裂かれる音とともに、男の右肩が吹き飛んだ。血肉が散乱し、男の身体が崩れ落ちる。同時に深い傷を負ったリヴェラも床に崩れ落ちた。
 床にリヴェラの赤い髪が散乱する。
 自身の荒い息が妙に大きく響いた。
 頬に当たる床が冷たい。
 全身から血が流れていくのを感じながら、リヴェラは作業的に魔力を込めて順番に止血を始めた。
 血を止めながら、すぐ先で剣を振るうナナシアの戦闘を見つめる。
 ナナシアは既に戦える状態ではなかった。
 あるいは、初めから戦える状態ではなかったのだろう。
 剣を持つ手首には大きな金属片が突き刺さり、大量の出血を強いている。あれではまともに力も入らないだろう。長引く戦闘によって身体中が切り裂かれ、足元には血溜りを作っている。全身が重く、思うように動かないに違いない。
 それでも、ナナシアは剣を離さない。
 真っ直ぐと敵を見据え、その剣を受け止めていく。
「私は」
 不意にナナシアが叫んだ。
「お前たちを軽蔑する」
 ナナシアの剣が大きく煌いた。一人の男の手首が斬り落とされる。
「これだけの技量があるならば、別の道があったはずだ」
 ナナシアが大きく動いたところへ、別の男が剣を振るう。それはナナシアの腹部を大きく切り裂いた。
 それでも、ナナシアは動じない。
 魔力特性"無痛"によって彼女はあらゆる苦痛を知覚しない。
「お前たちの剣は何も救わない」
 独り言のように呟いて、ナナシア・ブラインドは大きく踏み込んだ。彼女の剣が更にもう一人の男の首へ突き刺さる。その隙に残った二人の男が一斉に彼女の胴体を狙って剣を突き出した。
 時が止まった気がした。
 ナナシアの身体を二本の剣が貫いていた。
 それでも、ナナシアは止まらない。
「これがお前の限界点だ。私はもっと先をいく」
 最後に、ナナシアはそう言った。
 直後、ナナシアの剣が男の首へ届いた。その首が床に落ちて、嫌な音が響いた。
 残った男は後一人。
 ナナシアに刺さった剣を捨て、他の男たちが使っていた剣を拾う。その間、二本の剣が突き刺さったナナシアはぼんやりと立ち尽くしていた。
 瞳は虚ろで、焦点が合っていない。それでもナナシア・ブラインドは倒れない。
 そこからの攻防に、リヴェラは息を潜めて見入った。
 ナナシアは倒れなかった。既に意識も朦朧としているはずなのに、信じられない剣筋を見せた。
 一合、二合、三合。
 剣が衝突する度、男の足が後ろへ下がる。
 ナナシア・ブラインドは倒れない。
 ナナシア・ブラインドは剣を離さない。
 ナナシア・ブラインドは容赦をしない。
 綺麗だと思った。
 ナナシア・ブラインドの振るう剣は、信じられないほど美しかった。
 それは剣士として一つの到達点に達していた。
 リヴェラが目を奪われている間に、ナナシアは男を圧倒して壁際に追い詰めていく。
 風が吹いた。
 玄関ホールの扉が開かれる。
 それを合図に、ナナシアの剣が男の剣を弾き飛ばした。
「ねえ。リヴェラ」
 止めを刺そうと男に詰め寄るナナシアが不意に言った。
「私の遺産、郊外にある小さい教会に届けてくれる?」
 リヴェラは彼女の背中をじっと見つめた後、わかった、と短く答えた。
「ありがとう」
 ナナシアはそう言って、剣を振るう。それは男の胸元へ吸い込まれ、その命を断ち切った。
 強い風。
 開いた玄関扉から一人の男が入り込んでくる。
 魔力特性"浮遊"を持つトルだった。彼はホールを見渡した後、すぐに血塗れのナナシアの元へ駆け寄った。ナナシアの身体が崩れ落ちる。
「助かりそう?」
 リヴェラが荒い息を吐きながら問いかけると、トルはすぐに「もう無理だ」と答えた。
「そう……」
 リヴェラは目を瞑って、冷たい床の上で寝返りを打った。
 身体中に突き刺さった破片が食い込み、激痛が走る。
 それが堪らなく生を実感させた。
 リヴェラ・ハイリングは、まだ生きている。
「事後処理の為、応援を呼んでいる。すぐに到着するだろう。立てるか?」
 トルがそっとリヴェラの近くにしゃがみこむ。
 リヴェラは何も答えず、瞼の裏に再生されるナナシアの剣技をじっと見つめた。
 美しい。
 ナナシア・ブラインドが最期に見せた一瞬の輝き。
 剣士として完成されたその動きが目に焼きついて離れない。
 帝国騎傑団の応援が駆けつけるまで、リヴェラは目を瞑ったまま動かなかった。



 結論から言えば、救出任務は成功を収めた。
 加えて、誘拐組織の撲滅。
 その働きによって、救出任務に参加したメンバーには相応の褒賞が与えれた。
 リヴェラ・ハイリングは序列六位へ格上げとなった。また、序列三位ナナシア・ブラインドの殉職により、序列五位へ繰上げとなる。
 あれだけ求めていた序列が、急にどうでもよく感じられた。
 こんなものに何の意味があるのだろう。
 そう思いながら、ナナシア・ブラインドの最期の輝きを思い出し、かつて魔術師として志した何かが胸の奥で小さく蠢いた。
 暫くは何もやる気が起きなかった。
 ただ、義務的にナナシア・ブラインドの遺言通りに彼女の少なくない遺産を郊外の教会へ届けた。
「ナナシア・ブラインドからの遺言に従い、これを届けに参りました」
 リヴェラが無感動にナナシアの死を告げると、教会のシスターの顔はくしゃくしゃに歪んだ。
 そこには、リヴェラの知らないナナシア・ブラインドの姿があった。
 ナナシアは生前、給金の一部を教会に寄付していたらしい。教会が世話をしている孤児たちともよく遊んでくれた、とシスターは話した。
 リヴェラはナナシアが孤児だったことを思い出し、それから彼女の行動方針をぼんやりと理解した。
 ――金ってのはさ、いくらあっても足りないんだよ。魔物が吸い取っていっちゃうんだ。
 かつて、ナナシア・ブラインドが言った言葉。
 リヴェラは設備の整っていない教会、そして満足な生活を送れていない孤児たちを見てナナシアの言葉の意味を理解した。
 貧困は、解決されない。
 あらゆる不幸は際限なく地上に蔓延っていく。
 それは一人の剣士が救えるものではない。
 それから、ナナシア・ブラインドが最期の見せた輝き。
 そして、その時の言葉をぼんやりと思い出した。
 ――お前たちの剣は何も救わない。
 ――これがお前の限界点だ。私はもっと先をいく。
 まるで、自分に向けて言われているようだ、と思った。
 お前の魔術は何も救わない。これがお前の限界点だ。
 吐き出した息は、冷たい空気中に溶けていく。
 最期の剣技。
 その苛烈な在り方を思い出し、リヴェラの中で何かが燃え上がった。
 ナナシア・ブラインドは死によって完成された剣士となった。
 リヴェラが追い抜ける相手ではなくなってしまった。
 きっと、これからもナナシア・ブラインドを追い抜くことはないだろう。ぼんやりとそう思った。
 しかし、それを目標とすることはできる。
「リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?」
 リヴェラは自問し、そして答えを探す為に動き始めた。



 そして、運命の日が訪れる。



 その日、リヴェラは日課となった中庭での散歩をしていた。
 脳裏には何度も何度もナナシア・ブラインドの剣技が浮かんだ。
 そこに、草を踏み鳴らす音が耳に届いた。
 振り返ると、陽光の中に一人の幼い少年が立っていた。
「子ども?」
 思わず、疑問が口から零れる。
 王宮の中庭に、何故子どもが。
 リヴェラの視線に怯えたような仕草を少年が見せる。
 その仕草が愛らしい、と思った。
「貴女は魔女なのですか? 父上を、虐殺皇帝を成敗しにきたのですか?」
 不意に、少年が口を開いた。
 利発そうなしっかりとした話し方だった。
「父上? ああ、貴方は……」
 父上。虐殺皇帝。城内の中庭に迷い込んだ子ども。
 漠然と理解が始まる。
 リヴェラは自らよりも高位の少年に対して目線を合わせるようにしゃがみこみ、微笑んだ。
「貴方の父は疑心暗鬼に陥っているのです。その環境が誰も信じる事を許さず、虐殺へと走らせた。人の身である私が解決する事は叶いません」
 でも、と自然と言葉を続いた。
「貴方が同じ道を辿らないように、魔法をかけることはできます。多くの大きな物語で使い古されてきた古代の魔法です」
 特に考えがあった訳ではない。気がつけば、そんな事を口走っていた。
 ただ、少年の不安を和らげてあげたかった。
「古代の魔法?」
 少年が不思議そうに聞き返す。リヴェラはにこりと笑って答えた。
「人の温もりです」
 そう言って、リヴェラはそっと少年の小柄な身体を抱きしめた。
 その身体は、ひどく華奢だった。そのことにリヴェラは驚いた。
 とても皇帝としての重責に耐えられるような身体ではなかった。
 この少年は、恐らく壊れてしまうだろう。
 あの虐殺皇帝と同じように、心を喪って虚ろな皇帝となるだろう。
 そう思った。
「あの?」
 少年が困ったように声をあげる。
 人に抱かれることに慣れていないようだった。
 全身の筋肉が固くなっている。およそ子どもらしくないその反応に、リヴェラの胸の中で何かが音を立てた。
 虐殺皇帝は、きっと我が子を抱きしめたことがないのだろう。母親も、我が子を抱きしめる前に命を奪われたのだろう。
 そんな気がした。
 気まぐれによって産まれた存在。破滅が待ち構え、救われない存在。



 ――リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?



 リヴェラは強く少年の華奢な身体を抱きしめると、優しい笑みを向けた。
「貴方が疑心に陥らぬように。帝国騎傑団序列五位、リヴェラ・ハイリングが貴方を守る魔槍となりましょう」
 そしてリヴェラ・ハイリングはナナシア・ブラインドが遺したものを追い求めて、長い道を走り始めた。


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