Raison d'etre 1章06話

 桜井優は消毒液の匂いで目を覚ました。重い瞼を開くと、見慣れない白い天井がぼんやりと視界に入ってくる。カーテンが閉められているらしく、かなり薄暗い。
 身を起こそうとすると強い目眩を感じた。身体が酷くだるい。それに、わき腹が強く痛む。体調は最悪だった。
 しかも軽い失見当識を起こしてるようで、いまいち状況が掴めない。目線を落とすと、身体中に包帯が巻かれているのが見えた。酷い怪我をしてるらしい。
 なら、ここは病院だろうか。そう思って辺りを見渡すと、人影があることに気付いた。
「篠原さん……?」
 壁際に備え付けられたソファに、一人の少女が眠っている。
 疑問に思うも、少し嬉しかった。どうやら、心配してくれたようだ。篠原華とは友好的な関係を築けたという証拠。
 痛む身体に鞭を打って、ベッドからフラフラと立ち上がる。スリッパが見当たらなくて、床についた素足が冷んやりとしたが気にはならなかった。目眩を我慢し、窓際へと向かう。
 サッ、とカーテンを開けると、爽やかな日差しが部屋を満たした。小さく背伸びをしようとしたが、わき腹の痛みに耐えかねて断念する。
「……ぅ……んっ…………」
 背後で可愛いうめき声が響き、優は申し訳なさそうに振り向いた。
「ごめん、起こしたかな」
「桜井……くん……?」
 ぼんやりとこちらを向いた華は、徐々に驚愕の色を瞳に宿し、急にソファから立ち上がった。
「わ、私先生呼んでくる!」
 そう言って、彼女は慌ただしく外に出ていった。優はキョトン、とその後ろ姿を見送った。

◇◆◇

 医者の話によれば肋骨にひびが入り、出血も酷く、三日間意識が戻らなかったらしい。それを聞いて、華の慌てぶりに納得がいった。彼女は三日間、ずっと付き添ってくれていたらしい。随分と負担をかけてしまったようだった。
 暫くは安静にしなければならなかったが、最先端の医療用ナノマシンによる治療で、優はすぐに元気になっていった。非常に高価な技術であると聞いていた為、医療費を請求されればどうしようか、医療保険は効くのだろうか、などとビクビクしていたが、全てを亡霊対策室が負担してくれるらしく、安堵の息をついた。
 六日後、優は無事治療を終え、すぐに通常の生活に戻れるようになった。
 しかし、医務室で過ごす最期の日、思わぬ来客があった。
 ノックの音に、読んでいた漫画を横におく。
 てっきり華が入ってくるのだろう、と思っていたが、ドアから姿を現したのはシャギーの入ったセミロングの黒い髪に、鼻筋の通った、凛とした雰囲気を持つ少女だった。白のブラウスに、ふわりとしたフレアスカートがよく似合っている。
「あー……えーと……」
 名前が出てこない。優は気まずそうに少女を見つめて目を泳がせた。
 それを見た少女が慌てたように助け船を出す。
「第三小隊長の佐藤詩織です」
 正直、まるで覚えがなかった。返す言葉が見つからない。
 気まずい沈黙が到来するのを予感して、優は適当に口を動かした。
「……えっと……久しぶり……?」
 誠意の欠片もない言葉を放ってから、凄まじい後悔が襲ってきた。
 詩織は困ったように笑みを零す。
「あ、やっぱり、はじめましてだよね? ごめん、記憶力なくって」
 再び沈黙が落ちそうになり、慌てて言葉を重ねる。少女は言葉を選ぶように目線を泳がせながら、口を開いた。
「……ちゃんと挨拶したことないから、はじめましてで良いと思います」
「そっか。そういえば、そんな気がするかも」
 再び訳の分からない言葉が飛び出す。
 何だこの空気、と優は落ち着きなく、少女を見やった。
 詩織もそわそわした様子で、一向に目を合わせようとはしない。見た目はしっかりした感じだが、どうやら中身はそうでもないらしいようだった。
 一瞬、嫌われてるのかな、と思うも訪ねてきたのは向こうだ。一体この少女は何をしに来たのだろう、と首を傾げる。
「えっと、良かったからこれ食べる……?」
 沈黙に耐えきれず、優は棚の上に置いてあったプリンを手にとった。会話の流れが優自身わけがわからなかったが、沈黙よりはましだと思った。
「神条司令官から貰った結構有名な店のものらしいんだけど、食べきれなくって。あ、嫌なら無理にとは……」
「ぁ……えっと、いただきます」
 優はプリンの上に使い捨てのスプーンをのせ、手渡した。おずおずと手を出した詩織は、受け取った瞬間、びくりと肩を震わせた。
 やっぱり嫌われているのだろうか。そう思うも、嫌われるようなことをした覚えが全くない。何せ、向こうの言い分では今日会ったばかりなのだ。
 疑問に思いながら、優は自分用のプリンを手にとった。こちらも食べないと、詩織が食べづらいだろう、と気を遣った結果だ。
 座ったらどうかな、と勧めると、詩織はようやく来客用の椅子に腰掛けた。
「ルーライズって知ってる?」
 食べながら問いかける。
「ルー……ライズ……ですか?」
「うん。洋菓子の専門店なんだけど、かなりおすすめ。このプリンの五倍おいしいかな」
「……甘党なんですか?」
「将来、糖尿病になりそうなくらい」
 少し会話が繋がり、優は微笑んだ。
「……男の人って、そういうの駄目なんだと思ってました」
「確かにダメな人は多いね。僕がまだ子どもだから大丈夫なのかも」
 食べる、という動作が会話を副次的な要素に追いやり、少し緊張がほぐれたのだろうか。今まで受け身だった詩織がぽつぽつと話すようになった。
「前に私が怪我した時、神条さん、これと同じプリン持ってきたんです。皆に配ってるのかな」
「神条司令の親戚さんがやってるお店のものらしいよ。商売上手だよね」
 そう言って、二人して苦笑する。
 その時、詩織の個人端末から小さなアラームが鳴った。訓練の知らせだ。詩織が慌てて立ち上がる。
「あ、あのっ」
「ん?」
「プリンありがとうございましたっ!」
「どういたしまして。いってらっしゃい」
 気を付けてね。そう付け加えると、詩織は大袈裟な動作で頷き、慌ただしく部屋を出ていった。
 部屋に静寂が戻る。
「……結局何だったんだろう」
 もしかしたら、他に用はなく、ただお見舞いにきてくれただけだったのかもしれない。
 何故かどっと疲れた。優はそのままベッドに倒れこんだ。

◇◆◇

 佐藤詩織は医務室から飛び出すと、近くの壁にもたれかかった。
 全身が不自然に熱い。恐らく、自分は今耳まで真っ赤になっていることだろう。
 深呼吸して、気分を落ち着かせる。
 先の戦いで落下する優を最後に拾った時、不思議と拒否反応が出なかった。もしかしたら、と思って試しに来たのだが、会った瞬間頭が真っ白になってしまった。
 やはり、あれは命がかかった特殊な状況に起因していたのだろう。自分の男性恐怖症はまだ治っていない。
 普段から男性と一切関わり合いを持たない詩織にとって、優との会話は新鮮なものだった。異様に緊張して身体が固くなってしまったが、嫌悪感は感じなかった。少しずつマシにはなっているのかもしれない。
 ただ、それは恐らく優の容姿のせいでもあるだろう。はじめて間近で見た優は想像以上に小柄で、触れれば壊れてしまうんじゃないかと危惧してしまうような儚さがあった。
 たぶん、あれは年下趣味の人からしたら理想の相手ではないだろうか。整ったまだ幼い顔つきは優しく、性を感じさせない。無邪気な子どもという風だった。
 思い出すと、再び顔が熱くなってくる。
 詩織は妙な思考を追い払おうと顔を振り、誤魔化すように訓練室目指して駆け出した。


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