Raison d'etre 1章12話

 優が理沙に連れられて辿り着いたのは、都心の片隅に取り残された廃ビルだった。
 近く取り壊される予定のそれは、埃臭くてお世辞にも居心地が良いとは言えないが、確かに身を隠すにはもってこいの場所だった。
「今日はここで寝る。じっとしてな」
 理沙が慣れない手付きで優を縛り、動けないようにする。
 少しきつい、という優の訴えを無視し、理沙は壁に背を預けて座り込んだ。
 話せる雰囲気でもなく、二人の間に沈黙が落ちる。
 優は何気なく辺りを見渡した。古い建物だ。壁には小さな亀裂が無数に走り、幾何学的な模様を描いている。そして暗い。窓は大きいが、既に空に光はない。明かりをつけることも出来ない為、窓から差し込む僅かなネオンの光が唯一の明かりだった。
 逃げようと思えばいつでも逃げられる。それが優の下した判断だった。しかし、そうしなかったのは、目の前の少女が気になったからだ。意味もなく人を殺すようには見えない。
 優は理沙を見た。綺麗な黒い長髪で、大人と子どもの間のような、まだ幼さの残る顔には疲労の色が強く浮かんでいる。
 優は眉を寄せた。理沙の唇のはしに黒いものがついている。すぐに血だと気付いた。それにスカートが切り裂かれて太腿が露わになっていた。
「……口もとに血がついてます。それが原因ですか?」
 理沙が無言で口を拭う。良く見ると少し腫れているようだった。
「そう。これはいつものこと。けど今日はいつもより大人数で、数人は刃物を持ってた。このままだといつか殺される、と思った」
 理沙が呟く。その声からは先程までの覇気が全く感じられず、優は息を呑んだ。
「正当防衛なら、自首すべきです」
 咄嗟に、言葉が出る。理沙は唇に薄い笑みを浮かべた。
「ESP能力で人を殺めた者が公正な裁判を受けられると本気で思う? ESP能力者を、一体どうやって勾留するわけ?」
 優は何も答えられなかった。そんな事は、今まで考えた事がなかった。
「あんたさ、自分がどういう立場か知ってる? 小さな救世主だってさ。そういう報道がされてるんだよ。それなのにさ、亡霊っていう怪物に向けられるべき強力な力が一般人に向けられました。これからもそういう事件が起こるかもしれません、なんて報道できないでしょ」
 理沙は小馬鹿にしたように笑った。しかし、その笑みはどこか泣くのを我慢している子どものようにも見えた。
「今までさ、そういう報道って一つもなかったでしょ? 本当になかったと思う? ESP能力が一般人に向けられた事が、八年間一度もなかったなんて、ありえる? 私達は、司法の外にいるんだ。司法は、人を守る為にある。私達は人じゃない。人じゃ、いられない」
 理沙は突然口を閉ざした。そして、顔を伏せる。
「人間が私を人間扱いしないのならば」
 憎しみの籠った声だった。
「私は、ハーフという新しい種として生きるしかない」
「……軍に入る気はないんですか。ESP能力者だけで構成された中隊ならば、きっと――」
「ない。無理だよ。それこそ奴等の思う壺だ。もう、あたしは人間社会に関わるつもりも、従うつもりもない」
 人死が出た時点で説得はもはや不可能な域に達しているのかもしれない。
 優はじっと理沙を見つめた。
 理沙の言う通り、恐らくESP能力は司法の加護から外れてしまっている。司法は、彼女を保護しない。彼女は公正な裁きを受ける事ができない。それを理解して、彼女を警察機構に突き出す事が優にはできなかった。例え彼女が人を殺めていたとしても。
「……広瀬さんがここにいることは、軍にはすぐに分かります」
 理沙が睨みつけてくる。
「何を言って――」
「軍にはESPエネルギーを探知する技術があります」
「それくらい知ってる。固有の波形から人物まで特定できるんだろ。だから、すぐにあの場からは離れた」
「ESPエネルギーを使ってない状態でも、探知範囲を狭めて精度を上げれば通常状態でも探知が可能なんです。しかも、僕のESPエネルギーは平均より大きくて、探知されやすいです。このまま僕といれば補足されるのは時間の問題です」
 理沙の顔が警戒するように歪む。
「だから、今すぐ逃がせってわけ?」
「そうです」
「馬鹿げた事を――」
 理沙が毒づくのを遮って、優はにっこりと笑みを向けた。
「その代わり、あなたの逃走をお手伝いします」

◇◆◇

 奈々の指揮で自衛軍とは独立した亡霊対策室独自の桜井優の捜索が始まっていた。
 奈々は何の収穫もなく司令室に向かった。保安部の者が総出で既に優を散策しており、発見され次第連絡が来るように手配されている。
 ESP能力者による殺人を、奈々はどう受け止めて良いか分からなかった。それは警察の考える事であって、自分の仕事ではない、と無理矢理頭の隅に追いやる。
 司令室には既に調査の中間報告が寄せられていた。首都圏からは新たなESPエネルギー反応は確認されず、少なくともESP能力による新たな被害者は出ていないという。
「進展はなし?」
「はい。桜井優の行方も掴めていません。対ESPレーダーの精度をあげて調べていますが、時間がかかるそうです」
「……独自に街頭カメラの記録も徹底的に調べて。発見した場合、戦略情報局には伝えず、こちらで処理する」
 奈々はいくつかの書類を手に取った。特定された容疑者の情報が記されている。
 広瀬理沙。女。十八歳。夢野高校三年生。
 調査書に同封されていた写真に目をやる。恐らく高校の文化祭に撮った集合写真だろう。集団の端で一人立っている。周りがカメラに笑顔を向けている中、広瀬理沙だけがつまらなさそうにカメラの外を見ていた。
 奈々は次いで被害者の情報に目を通した。
 被害者は三人、いずれも女で理沙と同じ夢野高校三年生だった。卒業アルバムの為に撮ったらしい三人の写真を見てから、集合写真でその顔を探す。目立つ中央にいた為、すぐに見つかった。彼女らは広瀬理沙とは対象的に明るく笑っていた。
 写真から目を背け、次の書類に手を延ばす。これには、被害者達の更に詳しい情報が記載されていた。
 さっと書類を眺めていた奈々の瞳が一点に止まった。
 八月四日、東杏菜の父親が亡霊との上陸戦に巻き込まれ死亡。
 簡素な文を、奈々は三回読んだ。東杏菜は被害者の一人である。
 奈々は経緯を悟って、軽い目眩を感じた。
「司令! 報告です。白流島付近に巨大なESPエネルギーを確認しました」
 不意に加奈が叫んだ。奈々が書類を置いて立ち上がる。
 モニタを覗きこんだ奈々の顔が強ばった。敵反応は一つ。つまり戦力一定の法則が裏切らなければそれは――
「全小隊長を召集。六人全員をぶつける」
 加奈が頷き、すぐに召集命令が流れる。
 優の行方がわからないまま、新たな闘いが始まった。


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