源静流の庭園 04話

 静流の部屋を覗くと、机に向かって筆を走らせているところだった。
 真剣な顔で文字を綴る静流の横顔は、美しかった。
「静流さん」
 声をかけると、彼女は手を止めて振り返った。それから優しく微笑む。
「白。どうしたの?」
「何でもないけど、何してるのかなって。また物語を描いているの?」
「ええ。私が知っている限りの記録を残しておこうと思って」
 部屋に入り、乱雑に積まれている本の中から一冊を取り出す。
「この表題はなんて書いてあるの?」
「源氏物語。平安と呼ばれた時代のとても古い本の覚書よ。私の記憶から再現しただけだから原本とは異なるけれど」
「げんじ?」
「そう。十二族が二の形、藤原の家に連なった者が描いた物語。上位公卿十二家系の分岐点の一つ」
「今の十二族の元になるものなの?」
 ええ、と静流は頷き、それからやや演技がかった口調で歌を詠み上げた。
「この世をば、わが世とぞ思ふ、望月の、欠けたることも、なしと思えば」
「どういう意味?」
「この世は私のものだ。満月のように欠けたところがなく、完璧なものである、という意味よ。雨神様がお怒りになるずっと昔、栄華を極めていた時代の歌」
 静流はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
 書物に囲まれた灯りの乏しい部屋で、静流の双眸の奥に熱を持った何かが煌めいた。
「他の十二族は遠い過去の栄華を懐かしんでいるかもしれない。でも、私は今こそが完璧な世界だと思っているわ。この屋敷と庭園こそが望月のようなものだもの」
「完璧、なのかな?」
 白は首を傾げた。
 雨神様の呪いは十二族を分断し、自由を奪った。多くの人が住処を失った。
 その惨状は望月とは程遠いように思えた。
「私はこの庭園と白、そして古い物語があればそれでいいもの。それ以外に本当に必要なものなんて何もない。私は今の静かな暮らしが好きよ」
 静流が足を踏み出し、白を見下ろすように前へ立つ。
 そっと静流の手が白の頬に添えられた。
「忘れじの、行く末までは、かたければ、けふを限りの、命ともがな」
「その歌はどういう意味?」
「あなたの事がとても大事、という意味よ」
 それから、彼女は窓の外を見た。
 しとしとと雨が降っている。
「今日は散歩出来なくて残念ね」
「うん。静流さん。今度、文字を教えてくれないかな? 雨の日は暇だから」
 静流の視線が、ゆっくりと白に戻る。
 雨音が響く中、床が小さく軋んだ。
「白。書物には呪いが込められているものもあるの。危険な行為なのよ」
 それに、と静流は続けた。
「もし物語が読みたいなら私が聞かせてあげるから問題ないでしょう?」
 同じ物語を何度も話す癖があるのが問題だったのだが、白は何も言わなかった。
「……うん」
「暇な思いをさせてごめんなさい。そうね。今日は新しい話をしましょう」
 静流が白の手を取り、そっと畳に座る。
「雨神様の呪いは、争いを引き起こした元である知と富の独占にも向けられたわ。国中の書物が集まった大公書院は焼かれ、点在した複写物にも呪いが広がった。人は書物によって知を継承する事を禁止され、口伝が全てとなった。あらゆる知識と物語が歴史から欠落していったの」
 静流は近くにあった一冊の書物を手にとった。
「長い時間の末、人々は再び書に知識を込め始めたわ。ひっそりと、雨神様に気づかれないように。私たちは口伝で残ったものを書き記すようになった。特に十二族には多くの話が伝わり残っていたから、それを積極的に交換し、補完するように努めた。その中にはかつて呪いが込められた複写物も混じっていた」
 静流は書物を開き、それを白に見せた。
「この書物は口伝を元にある伝説を私が書き記したもの。雨神様の呪いはないわ。でも、中には他の十二族から譲り受けた古代の複写物が混じっていて、それを読んでしまえば呪いが降りかかってしまう。だから私のような上公巫女の役割を与えられた者以外が読む事は十二族の協定で禁じられているの」
 白にとって難解な話だった。
 文字に込められた呪い、というものがはっきりと理解できなかった。
「もしボクがその書物を開くとどうなるの?」
「呪いがこの一帯に広がるわ。物の怪さえも近づけない不毛の地となる。だから白はこれらの書物を開いてはいけないの」
「……うん」
 頷くと、静流は満足そうな笑みを浮かべた。それからそっと白を抱き寄せる。
「私の白。いい子にするのよ」
 静流の胸の中、そっと窓の外を見る。
 いまだ雨が止む様子はない。
 今夜は望月どころか月光の欠片すらも見えそうになかった。


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