源静流の庭園 05話
餌箱から掬い上げた餌を、池の鯉に向かって投げる。たちまち鯉たちが目の前に集まり、口をぱくぱくと開いて餌を拾い上げていく。
「君たちは本当によく食べるね」
眼下の鯉を眺めながら呟くと、後ろからクスクスと笑い声が届いた。
「それは胃がないからよ。きっと、いつも空腹なんだわ」
振り返ると、穏やかな笑みを浮かべた静流が立っていた。いつも後ろで結っている髪が、今日は解かれていた。
「胃がないって?」
「そのままの意味よ。鯉は食道と大腸が直接繋がっていて胃がないの」
静流が横に立ち、じっと鯉たちを見下ろす。
「朝昼晩、いつ餌をやっても良く食べるでしょう? 食いだめが出来ないから四六時中お腹が減っているの。だからと言って餌をやりすぎてもダメよ」
鯉たちは、池に浮かんだ餌をなおも食べ続けている。静流はその光景をじっと眺めていた。
「満腹感がないなんて可哀想、と思わない?」
「うん……いつも飢えてるのは可哀想だね……」
「そう。満足感がないの。それはきっと、とても苦しい事だわ」
静流が空を見上げる。
白も釣られて空を見上げた。雲ひとつない晴天が広がっていた。
「ねえ、私も同じなのよ。ずっと飢えているの。満足できなかったの」
だから、と静流は言葉を続けた。
「全て壊してしまったの」
そよ風が、止まった気がした。
暖かな陽光の中、静流の瞳がゆっくりと白に向けられた。
静流の透明な瞳に美しい庭園が反射し、瞳の奥には困惑した白がいた。
虫のさえずり声さえも、いつの間にか遠ざかっていた。
「壊した?」
白は静流の言葉をゆっくりと反芻してみせた。
彼女は肯定するように頷いた。
「ええ。何もかも全て壊してしまったの」
その声には、疲れのようなものが混じっていた。
「私はね、たまに自分が狂人である事を自覚するの。でも、後悔の念が沸き起こる事もない」
「静流さんは狂ってなんていないよ」
否定の言葉が、静謐な庭で妙に大きく響いた。
静流は声もなく穏やかに笑った。
「いつも飢えていたの。満たしたいと思ってしまった。後は坂道を転がるようだった。世界は私が思っているよりも遥かに脆くて、気づいた時にはあっという間に呪いが膨らんで、全てを飲み込んでしまったの。私はその中で、ずっと冷静だった気がするわ。ねえ、私は冷静だったのよ」
何かを懺悔するように、静流は次々と言葉を吐き出していく。
「私の白」
彼女の手が、白の頬を優しく撫でた。
「ひとつ教えて。この池の鯉たちは幸せだと思う? 狭い池に閉じ込められて、でも外敵からは守られる。餌も用意してもらえる。この鯉たちは幸せなのかしら?」
静流の瞳の向こうで、何かが揺れていた。
いつも大人びている静流が、どこか幼く見えた。
白は言葉を選びながらも、静流から視線を逸らさなかった。
「幸せ、だと思うよ。この鯉たちは呪いの満ちた外では生きられないもの。それに今よりずっと飢えた状態かもしれない。だから、幸せなんだと思う」
「そう……」
頬に触れていた静流の手が後頭部に周り、そっと引き寄せられる。
静流の胸の中、白は彼女を見上げた。
「静流さん?」
「白はもう少しで十五を数えるでしょう?」
「うん」
静流の冷たい手が、そっと浴衣の間に潜り込んだ。
冷たい感触に思わず身をよじる。しかし、静流の手は止まらない。
「頃合いだわ。時が来たら成人の儀を挙げましょう。もう飢える必要はなくなって、私の世界が、庭園が全て完成するの」
「静流さん、えっと、待って、くすぐったいよ」
静流の手が、浴衣の中で胸元をまさぐる。
彼女の荒い息遣いが白の耳に届いた。
「白。私の白。私だけの白。穢れなき白」
「静流さん」
大きく身をよじると、静流の手がようやく止まった。
「ごめんなさい。成人の儀の事を考えてしまって」
「成人の儀はなにをすればいいの?」
首を傾げると静流はクスクスと笑い、それから舌なめずりした。
「大丈夫。その時が来れば私が教えてあげるわ。そう、私が教えてあげるの。貴方は清く、穢れのないままでいてくれるだけで大丈夫よ」
静流が身体を離し、立ち上がる。
黒い長髪が風で広がり、甘い香りがした。
彼女はその澄み切った瞳に広大な庭園を映して、笑い飛ばすように呟いた。
「私はきっと、狂人なのでしょうね」
その姿が、白にはどうしようもなく美しく見えた。
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