源静流の庭園 09話

「静流さん……」
 白の呟きに、静流は答えなかった。
 彼女の足元に落ちた紙袋が風に揺れてガサガサと音を出した。
「静流さん、ごめんなさい。ボクは、ただ……」
 敷地から抜け出した言い訳をしようと口を開く。しかし、それより先は言葉にならなかった。
 じっとこちらを見つめる静流の瞳からは何の感情も読み取れなかった。
 数秒の後、静流はようやく動きを見せた。彼女は無言で白に歩み寄り、それから手を握った。
「日が落ちるわ。物の怪が動き出す前に帰りましょう」
「……うん」
 強く握った手を引っ張るように、静流が屋敷に向かって歩き出す。白も並ぶようにして後に続いた。
 みるみるうちに周囲が薄暗くなり、静流が急ぐように歩を進める。
「どうして」
 不意に静流が呟いた。蚊の鳴くような声だった。
「どうして、外に出てしまったの」
「……ケイサツの、クワキノさんって人が家に来て、近くで子供が行方不明になったって。だから、探さないとって」
「……白、あなたは優しいのね」
 静流は悲しそうにそう言った。
「貴方は穢れていないから。だからこそ、外に出るべきではないの」
「外……」
 白は静流の横顔を見上げ、それから意を決して口を開いた。
「静流さん。さっきの丘で遠くに家がいくつも見えたんだけど……あれは、何なの?」
 答えは返ってこなかった。
 手が強く握られ、静流は唇を強く噛んでいた。
 白は一瞬怯んだ後、更に言葉を続けた。
「雨神様はまだボクに気づいていないの? 呪いってすぐには降りかからないの?」
 静流は答えない。
 暗くなってきた獣道を、ただじっと進むだけだった。
「ねえ、ボク、呪いで死んじゃうの?」
 そこでようやく、静流は足を止めた。
 彼女は何かを我慢するように深く息を吸って、それから呟いた。
「全て嘘なの」
 白は言葉の意味が分からず、ただ静流を見つめる事しか出来なかった。
「雨神様なんていないのよ」
 彼女が何を言っているのか、わからなかった。
「でも、この世界が呪いに塗れているのは本当の話」
「静流さん……?」
 白の問いかけを無視するように、静流は言葉を続ける。
「私の母親は、殺されたの」
 静流が振り返り、どこか疲れた様子で言う。
「白、貴方の母親は重い病気だった」
 一体何の話をしているのか、白には全く理解できなかった。
「私達の父親は、生きる事を諦めてしまったわ」
 理解の追いつかない白を無視して、静流は喋り続ける。
「この国の若い人はね、病気で死ぬより自ら死を選ぶ人の方が多いのよ」
 脈絡がない。見えない。
「私はこの世界で生きていく自信がなかった。貴方を守っていく自信がなかった」
 細部の意味はわからないのに、何か重大な話をしているのがわかった。
「だから、こんな世界なんて壊してしまおうと思ったの」
 どこか清々しい顔で、静流はそう宣言した。
「私達だけの優しい世界を、作ろうと思ったの」





 源静流の記憶には、母親に関するものが残っていなかった。
 人づてに聞いた話では、母親が亡くなったのは静流が5歳の時だったという。
 年齢的には記憶に残っていても良さそうなものだったが、母の古い写真を見ても記憶の残滓を拾いだす事は出来なかった。
「どうしてうちにはママがいないの?」
 いつか、父親に疑問をぶつけたことがあった。
 すると父はひどく悲しそうな顔をして、静流は子供ながらに聞いてはいけない事を聞いてしまったのだと理解した。
 静流はそれ以降、成長しても母親の話題に触れる事はしなかった。母が強盗事件に巻き込まれたのを知ったのは随分後になってからだった。
 父親は一日の大半を仕事に費やしていた。
 一日の中で中々会う時間がなく、夜遅くに帰ってくる音がすると静流は布団から起き上がってわざわざ父親を出迎えた。すると父親は嬉しそうに笑って「ただいま」と言ってくれた。静流はそれがとても嬉しくて、毎日布団の中で眠るのを我慢して起きていた。
 父は寡黙で、優しい人だった。
 酒に溺れたり、弱音を吐くところなど見た事がなかった。休みの日は車で遠くに連れ出してくれた。
 良き父だった。
 だから、父が再婚出来たのは当然の結果だったのだろう、と静流は思う。
 静流が10歳になった時、父が知らない女性を連れてきた。酷く申し訳無さそうな顔をしていた事を覚えている。
 多感な時期の娘に再婚の相談をするのは不安だったのだろう。それでも父はその女性を愛していた。
 父と同じく、その女性も優しい人だった。
 血の繋がっていない静流に対して、本当の母親のように接してくれた。
 静流は二人の再婚を後押しした。本当の母親の事は記憶に残っていなかったからセンチに浸る事もなかったし、父は幸せを掴むべきだと思った。だから背中を押した。
 新しい母は薫(かおる)と言った。源薫。
 彼女は優しいだけでなく、ダメな事をした時は叱ってくれた。
 振り返れば、彼女はとても気を遣っていたのではないか、と思う。
 連れ子をしっかり叱る事は難しい。適度に甘やかしたほうがよっぽど楽だ。でも彼女はそうしなかった。本当に母親のように接してくれた。父が惚れた理由が分かった気がした。
 再婚してすぐに薫は妊娠した。もしかしたら、再婚前に妊娠が発覚していたのかもしれない。当時の静流にそうした事情は分からなかったが、とにかく新しい命が源家に誕生しようとしていた。
「触ってみる?」
 薫は膨らんだ腹部を撫でながら、静流に優しく問いかけた。
「いいの?」
「ええ。男の子らしいわ。あなた、お姉ちゃんになるのよ」
「男の子……」
「随分と年が離れてしまうから、一緒に遊んだりするのは難しいかしら」
 薫はそう言って幸せそうに笑った。
 静流もはにかんだ。幸せだった。
 それから少しして、薫は元気な男の子を産んだ。やや体重が小さかったが、出産は問題なく終わった。
 学校の帰りに面会に行った静流を、薫はやや疲れた表情で出迎えた。
「白(はく)、と名付けたの。穢れなき色という意味よ」
 産まれたばかりの赤ちゃんは、今にも壊れそうな細い手をしていた。
「静流。あなたはお姉ちゃんになったのよ。この子を守ってあげてね」
 今思えば、違和感のある言葉だった。
 まるで静流に託すかのような、そんな言葉を疲れ切った表情で薫は言った。
 薫が体調を崩したのは、それからすぐの事だった。
 一度は退院したものの、ひどい目眩を訴えた薫は寝てばかりになった。
 静流は学校から帰ると、白の面倒と薫の看病をするのが日課になった。
「これじゃあ、あなたの方が白のお母さんみたいね」
 薫は申し訳なさそうにそう言った。顔色がひどく青白かったのを覚えている。
 それから入退院を繰り返すようになって、薫は次第に病院で過ごすことの方が長くなっていった。原因は特定できなかった。
 父も日に日に疲弊していった。静流はどうしていいか分からず、白の世話をする事しか出来なかった。
 白の世話は苦ではなかった。手間のかかる子ではなかったし、甘えてくる姿がとても愛しかった。静流は殆ど白につきっきりの生活を送っていた。
 ちょうど、その頃からだった。
 中学生に上がった静流は学校で酷いいじめを受けるようになった。
 きっかけが何だったのか、今となってはもう思い出せない。
 影響力のある女子グループからからかわれるようになり、次第に学校で孤立していった。
 一度孤立すると、孤立しているという事実がいじめの原因になり、どんどん加速していった。
 静流は薫の看病と、白の育児を言い訳に学校を休むようになった。
 後は坂道を転がるように悪化していった。
 一度学校を休むと、勉強についていけなくなった。ノートを見せてもらえる友人もいなかった。
 欠席が増えると、出席しただけで注目を浴びるようになった。
「あ、今日は来たんだ」
 ふと耳に入ったそういう言葉が、酷く気になるようになった。
 クラス中の目線が自分一人に集まっているようで、静流はそうした目線に恐怖心を覚えるようになった。
 静流の欠席日数は、指数関数的に増えていった。
 父も母も、静流に目を向ける余裕がなかった事が拍車をかけた。
 白の世話を言い訳に、学校を休み続けた。
 穢れきなき色を体現するように白は無垢な存在で、静流は白にべったりくっつくようになった。
 あまりにも白とべったりな為に父から学校へ行くように怒られた時は学校に行く振りをして、そのまま山奥にある祖母の家へ遊びに行くようになった。
 祖母の家は古い木造建てで、広い庭園があった。手入れが行き届いていない為に草木が生い茂っていたが、街の喧騒から離れたそこは静流の逃げ場となった。
 祖母は独り身のためか、静流が来る事を拒まなかった。学校をサボっている事について怒る事もなかった。
 ただ一度、試すように言われた事があった。
「辛いのかい」
 短いたった一言が、胸に突き刺さった。全てを見透かされている気がした。
 黙り込む静流に、祖母は言った。
「なら逃げればええ。でも人は一人では生きられん。それだけは覚えときや」
 祖母の言いたかった事は、今でも分からない。
 逃げるのは良いが限度がある、という事だろうか。何度も考えたが、正解は見つからなかった。
 それでも、祖母は静流が逃げ込むのを見逃し続けた。父と母に密告する事はしなかった。
 そんな祖母が亡くなったのは、静流が14歳の時だった。
 発見したのは新聞の集金屋だった。庭で倒れているところを発見され、病院に搬送されたが既に事切れていた。
 怒涛だったのは、それからだった。
 母も急速に体調を崩し、祖母を追うように三ヶ月後に亡くなった。
 突然の事だった。
 亡くなる前日は、普通に静流と会話をしていた。それらしい最期の挨拶も出来なかった。
 葬式を終えた後、父は生気のない顔をしていて、無言で静流を抱きしめて泣き崩れた。
 父が泣く姿を見るのは、それが初めてだった。
 二度に渡って愛する人を失って、父の精神は限界だったのだろう、と思う。
 だから父が自殺した時、不思議と驚く事はなかった。
 通勤途中の立体歩道橋から飛び降りたのだと、電話がかかってきた。静流は白を抱きながら、その報告を黙って聞いていた。
 通勤途中というのが父らしい、と思った。死に場所を求めてどこか遠くへ行ったわけではなかった。ただきっと、唐突に死にたくなったのだろう、とそう思った。
 当時の静流は15歳で、白はまだ4歳だった。
 母の保険と、父と祖母の遺産が転がり込んできた。
 中学生の静流にとって大金だった。どうして良いか分からなかったが、下手に手をつけるべきではないように思えた。
 両親が亡くなった後、近所の人たちがしきり家に訪れるようになった。それが静流にとっては煩わしかった。
 もう学校に行くつもりはなかったし、誰とも関わり合いたくなかった。
 白を連れて、祖母の遺した屋敷に生活拠点を移すようになった。
 そのまま義務教育を終えた後、結局静流は高校へは進学しなかった。
 普通の高校生として人生を歩んでいく自信が、静流にはなかった。
 結局目標もなく、静流はそのまま進学も就職もせず、山奥の屋敷で白を育てるだけの生活を始めた。
 残った貯金を節約するため、自分の食事は出来るだけ山菜を使うようにした。庭園で家庭菜園も始めた。
 どこか現代人から離れた生活を数ヶ月続け、それからふと気づいた。この生活を続ける事に何も問題がない事に。
 外の世界は呪いに塗れている。
 母親のように殺される事だってある。
 父のように自ら死を選ぶ人間だっている。
 自分のように、ちょっとしたきっかけで集団から弾かれる存在だっている。
 悪意と呪いに満ちた世界で生きていく理由が、一体どこにあるのだろう。
 かつて薫は言った。
 ――白、と名付けたの。穢れなき色という意味よ。
 ――静流。あなたはお姉ちゃんになったのよ。この子を守ってあげてね。
 穢れなき白。
 きっと、外の世界では簡単に穢れてしまう。
 姉として守れるのはこの庭園の中だけだった。
 ならばいっそ、外の世界などいらないのではないか。
 悪意と呪いに満ちた世界など、壊してしまえばいいのではないか。
 そう思ってしまった。
 それに、と静流は幼い白を見つめた。
 無垢な穢れのない姿。聡明で、大人しく、上目遣いで見上げてくるその瞳が愛おしかった。
 他にはきっと、何もいらない。
 二人だけで生きていけば良い。
 だから源静流は、世界を殺す事にした。


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