源静流の庭園 10話

「だから私は、世界を丸ごと壊してしまう事にしたのよ」
 当然のように、静流はそう言った。
 語られた生い立ちの全てが、白の理解を超えていた。
「静流、さん……一体何を、言って……」
「もっと単純に、もっと分かりやすく言い直しましょうか」 
 薄暗い森の中、静流は今にも泣きそうな顔で言葉を続ける。
「あなたはずっと、私の空想の世界で生きてきたのよ」
「空想の、世界……?」
「そう。全てが私の空想で、嘘だったの。雨神様の呪いなんてなかった。人々は今も、争いを繰り返しながら繁栄し続けている。さっき山の向こうに見えたあそこに、たくさんの人たちが暮らしているのよ」
 何かが崩壊していく音が聞こえた。
 先程まで確かに存在していた大地が崩れ、白を飲み込もうとしていた。
 世界そのものが軋み声をあげ、大切な何かがずれていく。
「十二族なんて元からいないの。それどころか私達に身寄りなんていない。上公巫女というのも嘘。私にはそんな大層な力なんて宿っていないもの」
 静流の口から次々と溢れる言葉を、白は呑み込む事が出来なかった。どのように理解し、どのように納得すれば良いのか皆目見当がつかなかった。
 唖然とする白を見て静流が泣きながら笑い声をあげる。自嘲するような、どこか自暴自棄な笑い声だった。
「おかしいでしょう? 私はずっと、貴方に嘘を教え続けてきたの。貴方が物心ついた時からずっとよ。空想の世界を真剣な顔で語ってきたの。自分でも頭がおかしいと思うわ。こんなのどこかで破綻するに決まってるのに、十年以上も嘘を重ねてきた」
「……ねえ、じゃあ、この森には物の怪もいないの?」
 問いかけると、静流は泣くように笑いながら頷いた。
「ええ。物の怪も空想の生き物よ。この世界にそんな怪物はいないわ。全部、何もかもが嘘だったの」
「じゃあ――」
 白は静流から目を離し、すっかり暗くなった空を見上げた。
「――このまま子供たちを探さないと」
 静流の瞳が大きく見開かれる。
 白はもう一度静流に視線を戻し、真っ向から彼女を見つめた。
「静流さん。お願い。ボクは外の世界をよく知らないから一緒に探して欲しいんだ」
 彼女はすぐには口を開かなかった。
 揺れる瞳で白を見つめ、長い間動かなかった。
「あなたは」
 静流が震えた声で言う。
「本当に穢れなく、何の色もつかないまま真っ白に育ってしまった」
 どこか悲しそうな表情だった。静流が何故そんな顔をするのか、白には分からなかった。
「怒らないのね。私が嘘をついてきた事に」
 白は首を傾げて、それから苦笑した。
「驚きはしたけれど、正直よくわからないよ。本当は雨神様がいなくて、人間が大勢生き残っているなんて想像できないし」
 それに、と白は言葉を続けた。
「静流さんはボクを守るためにそうしたんだよね。お母さんもお父さんも、ボクは全く覚えてないから良くわからない。でも、良くない死に方をしたんだって事は分かった。ボクは何も知らないから、静流さんがそこから何を考えて嘘をついたかは分からないし、それを悪くも言えないよ」
 それから思い出したように付け加える。
「あと、ずっと守ってくれてありがとう」
 静流の表情が崩れる。
 白はそれを困ったように見てから、ゆっくりと踵を返した。
 子供たちを探すため、暗い小道へ足を進める。
「白!」
 後ろから静流が白の腕を取った。
「ダメよ。夜の山道は危険だわ。夜明けまで待ちなさい」
 振り返ると、真剣な静流の瞳があった。
 涙に濡れた瞳が、今度は嘘ではない事を告げていた。
「物の怪なんていなくても夜は危険なの。夜が明けたら一緒に探しに出かけましょう」
「でも――」
「白、これは譲れないわ。山に慣れている人でも危険な事なの。外を知らない貴方に夜間の捜索は許可出来ない」
 白は少しだけ考えて、すぐに折れることにした。
「うん……じゃあ、夜が明けたら一緒に探してくれる?」
「ええ。だから今日は一度屋敷に帰りましょう」
 静流がそう言って、手を握ったまま屋敷に方向を変える。
 静流に歩みを合わせて隣に並ぶと、彼女はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。
 白は何も言わなかった。
 手を引かれて、見知らぬ土地から屋敷への帰り道を行く。
 彼女に引っ張られながら歩いていると、不意に古い記憶が蘇った。
 ずっと昔、こうやって山を登った気がする。白を守るように先を歩いてくれた人がいた気がする。 
 それだけはきっと、嘘ではない。
 ならば、十分だと思った。



 屋敷に戻ると、静流は真っ直ぐ自室へ向かった。
 白は縁側に腰掛け、明かりに寄ってくる虫を邪魔そうに手で追い払った。
 空を見上げると、鮮やかな月が浮かんでいる。
 いつもと変わらない星空だった。
 雨神様がいようといまいと、世界は何も変わらない。
 この庭園はとても小さな砂粒に過ぎないのかもしれない、と思った。
 草履を履いて縁側から立ち上がる、灯籠の明かりを頼りに池の中を覗くと、鯉たちは水底でじっとしていた。きっと眠っているのだろう。
 その場に座り込んで、動かない鯉をじっと見つめる。
 鯉たちは眠っている時でも目を閉じる事はない。
 自分も同じかもしれない、と思った。ずっと目を開けていたのに、深い眠りについて静流が語る夢を見ていただけの気がする。起きていると錯覚していただけだった。この世界は夢現に過ぎなかった。
「白」
 振り返ると静流が立っていた。
 彼女はそっと白の横に腰を下ろし安堵したように言った。
「桑木野さんから連絡があった。行方不明の子供たちは全員無事に見つかったらしいわ」
「連絡?」
「電話という、外の世界とやり取りする方法があるの。今度また教えるわ」
「電話……」
 呟いて、それから白は口を噤んだ。
 知らない事が多すぎた。何から聞けばいいのか分からなかった。
 静流は白が新たな概念を咀嚼して飲み込むのを待つように黙っていた。
 その態度が、白には一層不思議だった。
「静流さんは」
 頭の中で整理しながら、疑問をゆっくりと吐き出していく。
「ボクに大きな隠し事をしていた。色々な事を隠しただけじゃなく嘘をついてた」
「ええ、そうよ。私は貴方に隠し事をして、色々な嘘をついてきた」
 静流は静かに肯定する。
 灯籠の明かりに照らされた彼女の瞳は、じっと池の中の鯉へ注がれていた。
 白は大きく息を吸って、それから言った。
「でも、分からないんだ。もっと騙せてたはずだったのに、十年も積み重ねてきた嘘をあっさり白状した。きっと静流さんなら誤魔化せたと思う」
 静流の視線は池に向けられたまま動かない。
「どうして静流さんは、あんなにあっさりと全てを白状したの?」
「どうして」
 静流は呟くように反芻して、それから目を閉じた。
「貴方がもう、十五歳になるからよ」
 真意を図りそこねた白は何も言わなかった。
 静流が目を開き、それまでじっと見つめていた池から視線を外して白を見る。
 視線が交差した。
「幼かった貴方を連れてこの屋敷に転がりこみ、世界を丸ごと壊そうと決意したのは私が十五歳の時だった。私はこの生き方を自分で選択してきた」
 だから、と彼女は言葉を続ける。
「貴方も選択するべきだと思った。十五を数えれば成人だと教えてきたでしょう。私が重ねてきた嘘を洗いざらい話して、そこで貴方自身がこの庭園で生きていくか外に出ていくか今一度選択を与えるべきだと思ってた」
 バレたところで今更隠す意味などなかったのよ、と彼女は自嘲するように笑った。
「もちろん今日の事は想定外だったわ。正直、動揺した。いえ、貴方のほうがもっと動揺しているでしょうね」
「……うん」
 白は小さく呟いて、それから空を見上げた。
「静流さん、この世界はどれくらい広いの?」
「言葉では言い表せないほどよ。この山があって、外には町があって、その外には都道府県と呼ばれる区切りがあって、そしてそれらをまとめる国があって、そうした国が何百と存在して、そうしてこの惑星があって、外には更に広大な宇宙が広がっているの」
 そうだ、と静流は悪戯っぽく笑う。
「空に月が出ているでしょう。ごく一部の人間はあの月まで移動した事があるのよ」
 白にはそれが冗談なのか本当なのか判断がつかなかった。
 ただ想像もできないほど恐ろしく広大な世界が外に広がっているのだとわかった。
 それで、答えが決まった。
「……静流さん」
 小さく息を吸って、それから慎重に言葉を口にしていく。
「静流さんは前に言ったよね。この池の鯉たちは幸せなのだろうかって」
「ええ、言ったわ」
「狭い池に閉じ込められているけれど、でも外敵からは身を守る事ができる。餌も用意してもらえる。果たしてこれは幸せなことなのだろうかって。静流さんはそう言った。それに対してボクは確かこう答えた気がする」
 静流の黒曜のような瞳を真っ直ぐ受け止め、白は告げた。
「きっと幸せなんじゃないかなって。この鯉たちは外の呪いの中では決して生きられないから」
 ボクも一緒だよ、と白は言葉を続けた。
「ボクもこの鯉と一緒なんだと思う。ボクはこの庭園の中でちょっと退屈だったけど幸せに生きてきた。お母さんみたいに誰かに殺される事もなかったし、お父さんのように自分で死のうなんて思わなかった。そんなボクはきっと、外の呪われた世界では生きられなかったんじゃないかなって、そう思うんだ」
 だから、と静流の手を取る。
 幼い頃からずっと引っ張ってくれた手を握り返す。
「ボクは静流さんに感謝してるよ。今までありがとう」
 池の中、鯉は目を開けたまま眠り続けている。
 その瞳は、夢現を見たまま動かない。
 うたたかの中、気泡が浮かんで溶けていく。
 小さな池に波紋が広がり、やがてそれはすぐに穏やかな水面となって消えていった。


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