堕恋

1.
 セックスレス。
 その名の通り、カップル間、あるいは夫婦間で長期間性交渉が行われないことを指す。
 倦怠期の異性間ではよくあることだ。別段珍しいことではない。肉体的な繋がりが薄れたといっても、精神的な繋がりが絶たれるわけでもない。逆に精神的な繋がりが強くなることによって肉体的な接触を行う必要性がなくなっていく場合もあるだろう。
 でも、僕の場合はそうした限りではなかった。
「浮気じゃないの?」
 居酒屋。酔った勢いで零してしまった性事情に僕の姉である勝香(かつか)はそう言った。
 浮気。その可能性も考えた。けれど――
「新婚三ヶ月も経ってないのに?」
「前々から出来てたんじゃないの。まあ、そこまで珍しい話じゃないよね。だって、結婚した途端なくなったんでしょ? あんた、体よく利用されてるだけじゃない」
 それとも、と姉の瞳が僕を見定めるように動く。
「それとも、なに。避けられる直前、何かやったんじゃないの? 例えば、苦痛を伴う方法とか」
「……全く覚えがない」
「じゃあ、やっぱり男だな。他と関係持った途端に夫を受け付けなくなるってのは別におかしいことじゃない」
 外に男作ってるんだよ。姉はそう言ってつまみを口にする。
「でも、そんな様子はない。僕が帰宅すると、奏(かなで)は既に夕食の用意を終えてじっと待っているだけ。留守中に浮気してるとはとても思えない」
「そりゃ、バレないように要領よくやるでしょ」
 姉は呆れたように言って、だからさ、と言葉を続けた。
「結婚、なんて所詮そんなもんだよ。出会って数年の二人が互いを理解した風に思い込んで失敗する。結局、赤の他人なんだから」
 僕は何も言い返せなかった。嫁である奏が何を考えているのか、何もわからなかった。
「ねえ」
 姉の瞳が、纏わりつくように僕に向けられる。
「だから、私にしとけば良かったんだよ」
 とくん、と心臓が跳ねた。
 泳ぎそうになる視線を姉に向けて、彼女の瞳を正面から受け止める。
 かつて、過ちを犯した事があった。一過性の、気の迷い。
 きっかけは、恐らく思春期特有の好奇心。
 その歪んだ関係は僕が大学に入って奏と付き合うまで続いた。
「私なら、そんなことしなかったのに。あんただけをずっと見ていてあげたのに」
 姉はそう言って、お酒を煽る。
 僕は何も言わなかった。当時の事について、僕たちはそれに触れないようにしてきた。姉がここでそのことに触れるのは予想外で、僕は返答に窮していた。
「……ごめん。出ようか」
 姉がそう言って席を立つ。僕も変な空気を紛らせる為に立って、財布を取り出した。
「今日は出すよ」
「ごちそうさま」
 会計を済ませて、外に出る。夜風が気持ち良い。
「ねえ」
 突然、姉が耳元で囁いた。
 ぞわり、と寒気が走る。
「溜まってるんじゃない」
 そう言って、姉の腕が腰に回される。恐ろしく慣れた手つき。
 中学生だった時、初めて間違えたあの瞬間が脳裏をよぎる。
 気づいた時には既に、僕はその腕を振り払っていた。
 あ、という乾いた声が響き、僕達の間に気まずい沈黙が落ちた。
「……ごめん」
 姉が謝罪の言葉を口にする。僕は無理やり笑みを浮かべて、わざとらしく笑い声をあげた。
「勝香さん、お酒臭い」
「……あんたもだろ」 
 姉も僕に合わせるように、先程までの空気を払拭しようと演じる。
 姉と弟。普通の、姉弟。僕たちはそれを演じる。
 僕たちは、もう子どもではない。互いに社会人となり、火遊びをする年齢ではなくなってしまった。
 全てが自由であるように思えたあの世界はもう、どこにも存在しない。
「……じゃあ、私は駅から帰るけど」
「うん。僕はタクシー呼ぶから」
 僕たちは最後に互いを見た。
「なんかあったら連絡しろよ」
「……うん。ありがとう」
 また。そう言って、姉は背を向ける。そして、僕も帰路についた。

「おかえりなさい」
 家に帰ると、奏がリビングから出てきて出迎えた。同棲してからの、変わりのない光景。
「ただいま」
 僕は靴を脱いで、それから彼女を見た。いつも通りの、感情表現が乏しい無表情。
 奏が無表情なのは出会った時からだ。しかし、今は無表情に出迎える彼女が、義務感から作業的に出迎えているように思えてならない。
「今日はお姉さんと二人で?」
「うん。久しぶりに」
 リビングに入り、買ったばかりのソファに腰を下ろす。
 そこは、酷く静かだった。テレビもついていない。僕が帰るまで、彼女は一体ここで何をしてたのだろう。
『浮気じゃないの?』
 姉の言葉が脳裏をよぎる。
 少し、室温が低い。直前まで空気を入れ替えていたのだろうか。
 空気洗浄機。お香。
 リビングに置かれたそれらが、妙に気になった。
 痕跡を消すには、十分な道具が揃っている。
「はい」
 考えこんでいると、目の前に水の入ったコップが出された。
「……ありがとう」
「大丈夫? 顔色が悪いけど」
 奏はそう言って、僕の隣に座ってリモコンを手に取る。テレビの電源が入り、耳障りな笑い声が飛び込んできた。
「……少し飲み過ぎた」
 奏の顔が、今は見たくなかった。
「ごめん。先に寝る」
 立ち上がり、寝室に向かう。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 寝室のドアを開けると、皺一つないベッドシーツが真っ先に目に入った。
 取り替えたばかりのシーツ。
 別に、普通の事だ。奏は掃除をこま目にする。ほぼ毎日洗って、部屋を整えてくれている。
 しかし、それが今は、証拠の隠滅を図っているように思えて仕方がない。
 一度疑い出せば、全てが怪しく思えてしまう。
 着替えを終えて、ベッドに倒れ込む。何も考えたくない。
 その時、寝室のドアが開いた。奏が入ってきたらしい。
 僕は、寝返りを打って。今は奏の顔を見たくなかった。
 買ったばかりのダブルベッド。悩みながら、一緒に家具を選んだ日々。それが今は遠い日の事のように思えた。
 奏がベッドに入り、そっと身を寄せてくる。
 変わらないように見える日常。しかし、きっと、これ以上の接近を望めば、彼女はそれをやんわりと断るだろう。
 だから、僕はそれ以上は望まず、日常を演じる。
 この生活が壊れないように、それまで通りを演じていく。


2.
 勝香さん。
 姉の事をそう呼ぶようになったのは、一体いつからだっただろうか。
 明確な時期は覚えていないが、きっかけは覚えている。
 二人で遊びに行った時、店員に恋人同士と間違えられたのだ。
「どうせなら、互いを名前で呼び合わない?」
 姉の希望。僕はそれに応じた。
 今思えば、愚かな事だと思う。
 偽りの恋人ごっこ。
 僕たちは実の姉弟で、その血の繋がりは呼び方一つで否定できるものではない。
 それでも、あの当時の僕たちには恋人を演じる事がとても正しい事のように思えた。
 家では仲の良い姉弟を演じ、外では恋人を演じた。
 その使い分けは、中学三年生の冬から高校三年生の夏までのおよそ三年間続いた。
 終わりは、呆気ないものだった。
 僕が十八歳、姉が二十歳の時、父が倒れた。肺癌だった。既に全身へ転移し、助かる見込みがないまま父はホスピスに移った。
 最期の苦痛を和らげる為の緩和医療を受けながら、父は死を待っていた。その生命にはもう、終わりが見えていた。 
「人の生き方に今更どうこう言わないが、若いうちだけが人生じゃない」
 姉と見舞いに行った時、父は唐突にそう言った。初めは、何を言っているのか分からなかった。
「そのまま歳をとって、どうするつもりだ。ただの姉弟に戻るのか。その時、お前たちはいくつになっている。それから別々に家庭を、子どもを作ることができるのか」
 関係に気づかれている。
 そのことに動揺する僕を無視して、父は言う。
「結婚することが正しいとか、子どもを作る事が正しいというつもりはない。それが出来る相手を選べるべきだ、というつもりもない。ただ、父さんはお前たちが成長する姿を見ていて間違いなく幸せだったよ。こうして最期を看取ってくれる子どもがいて、その子どもたちは父さんが死んだ後も生きていって、命を紡いでいく。そう考えるだけで、生きてきた意味を感じる事ができる」
 だから、と父は言った。
「思春期の過ちを引きずって、そのまま流されるのだけは止めなさい。勝香はもう成人した。大人になったのだから、今一度、真剣に考えて、選択をするべきだ。流れに身を任せるまま時を重ね、後悔することだけはしてはいけない。それをすれば、お前たちはただの姉弟にも戻れなくなってしまう。父さんも、母さんも、申し訳ないが先にいなくなってしまう。本当に頼れる相手は姉弟しかいなくなる。その関係を壊すようなことは絶対にしてはいけない。どんな選択を選んでも、お前たちは最後の家族であることを忘れてはいけない。いいね」
 父が亡くなったのは、その一ヶ月後だった。
 僕たちの肉体的接触は、それを機になくなった。互いに明確に言葉を交わした訳ではない。どちらからともなく、普通の姉弟に戻ろうとした。
 そして大学に入り、奏と知り合った。奏と付き合い始めるまでにそれほどの時間は必要なく、僕と姉の関係は完全に終わってしまった。
 それが正しかったのか、僕にはわからない。
 姉といる時は、互いの考えが手に取るように読めた。でも今は、奏が何を考えているのか分からない。
 夫婦とは、こんなものなのか。
 生まれながらに所属していた家族と、自分自身の手で新しく作った家族。
 同じ家族でも、その違いは歴然で。
 自然と、溜息が出た。
「どうしたの?」
 ベッドの中、寄り添う奏が不思議そうに言う。
 君が浮気してるんじゃないかと心配してて、なんて答えられる訳がなく、なんでもないよ、と使い古された言葉を返す。
 休日。普段より遅い起床。
 僕はのろのろと着替えを済ませて、朝食の準備にとりかかる。
 休日の食事は、僕が準備する事にしている。
 僕がキッチンに立ってすぐに奏が起きてきてリビングのソファに座った。
 調理中、奏は何が面白いのかじっと僕を見つめている。いつもの事だ。普段なら気にならない視線が、今は妙に気にかかった。浮気相手と連絡する隙でも見計らっているのではないか、と自分でも疑いすぎだと思うほどの疑念が胸の奥から沸き起こる。
 奏の視線を感じながら、簡単な朝ごはんを作り終えて皿に盛り付けていく。
「できたよ」
 テーブルの上に運ぶと、奏は薄い笑みを浮かべる。
「おいしそう」
 奏は、感情が表情に出づらい。注意していなければわからないほどの微笑。だからこそ、それが愛想笑いではないことがわかった。
 彼女の対面に腰を下ろして、一緒に朝食を食べ始める。
 僕たちは食事中にあまり言葉を交わさない。暫く、静かな食事が続いた。
 そのまま無言で昼食を終え、僕は息をついた。それを見た奏が立ち上がる。
 トイレかと思ったが、彼女はそのまま僕の後ろに回って、首に腕を絡めた。
「なにか、悩み事?」
 耳元に、彼女の吐息がかかる。
 その仕草だけを見れば、僕達はまさしく新婚の夫婦なのだろう。夜の生活が全く無いことを除けば。
 それ以外では、奏は以前と全く変わらない様子で僕を接する。これは、演技なのだろうか。離婚の事由にならない程度の夫婦生活を演じているのだろうか?
 奏の考えが、読めない。
 このまますれ違うよりは、ここで問題を明らかにすべきだろうか。
「奏」
 僕は彼女が逃げられないように、首に絡みつく腕を掴んだ。
「僕のこと、避けてる?」
「……どうして? 避けてるならこんなことしないけど」
 奏はとぼけるように言って僕の首筋に顔を埋める。
 追求するか、引くか。その二択で迷い、僕は結局彼女の腕を離した。
「そうだね」
 同時に、彼女は僕から離れてキッチンに向かう。
「洗い物、私がするね」
「……ああ」
 彼女が望むように、何も問題がない夫婦を演じる。
 追求さえしなければ、彼女は変わらない生活を演じるのだろう。
 だから、自分の手で壊してしまうことが恐ろしかった。
 先送りにして、とりあえずの平穏を得る。
 それが間違っている事は理解していたが、僕はそこに縋り付き、問題を遠ざけていく。


3.
 奏と出会ったのは、大学のゼミだった。
 当時の奏は、孤立しがちだった。友人はいるものの、生来の無口さ故か、女子グループの後ろをついているだけで、周囲との交友関係が薄い存在だった。
 ゼミを通じた活動で、奏と連絡先を交換することになり、そのまま知り合いとしての交流が始まった。
 配属先の研究室も同じになり、自然と話す機会も増えると、息抜きに外でも遊ぶようになった。付き合うようになるまでにそれほど時間はいらず、四年に上がる前に僕達は交際を始めた。奏はどちらかと言えば周囲と壁を作る人間だったが、一度親しくなった人間に対しては甘える方で、交際は順調に続いた。
 それから三年。そして三ヶ月前。僕たちは結婚した。
 その間、彼女は一度も浮気の兆候を見せたことはなかった。元より、人見知りで交友関係が薄かった為、その心配はいらないと思っていた。
 そう思っていたのだけど、今、奏の潔白を心から信じられるのかと問われれば、僕は即答できないくらいに彼女に対して疑念を抱いている。
 姉に相談して二週間が経過した。
 興信所に頼んで一度しっかりと調べて貰おうかと思った事もある。しかし、それをしてしまえば僕達の関係は完膚なきまでの破綻してしまうかもしれない。証拠があがれば、僕たちはもう元には戻れない。それがどうしようもなく、怖い。
 進むか、立ち止まるか。その二択を迫られた時、僕は愚かにも立ち止まる事を選んだ。
 人はやり直す機会さえあれば、どうとでもなるものだ。一度心が離れたとしても、それはまだ決定的な破綻を意味する訳ではない。まだやり直せるはずだ。そう思いながらも、僕は心の奥でそれが愚かな詭弁であることを重々承知していた。
 浮気というものは、恐らくはもう取り返しがつかないものなのだ。少なくとも、周囲の人間関係において浮気という単語が出た時、僕は心底それを軽蔑していた。一度でも浮気をする人間は、必ず過ちを繰り返す。初めからブレーキが壊れているのだ。慎重になることはあっても、その生来のブレーキが修復される訳ではない。そして、その修復はそこら辺の整備士が請け負ってくれるわけでもない。
 それが、どうだろう。いざ自分の妻が浮気をしているかもしれない、という状況に陥って僕はまだやり直せるかもしれないという希望に縋っている。人の判断力というものは、本当に頼りにならないものだ。特に女性関係においてのそれは、本当に頼りにならないと身をもって思い知る。偉人たちの女性関係における失敗談というものを幾度か聞いたことがあるが、女性関係というものは理性的な判断能力を剥ぎ落としてしまうものらしい。
「今日はよく晴れてる。どこか、遊びに行きましょうか」
 奏はリビングのソファで僕に身を寄せるように隙間なくひっつきながら提案する。外を見ると、わざとらしいほどの青空が広がっていた。僕は気乗りせず、どうやって断ろうか、と言い訳を探していた。頭の中は、昼と夜で態度がまるで違う奏のことでいっぱいだった。
 その時、着信音が響いた。テーブルに置きっぱなしだった携帯を開くと、着信元が姉であることを示していた。
「もしもし。勝香さん?」
『もしもし。今夜、よかったら奏さんも一緒にこっちで夕食しない?』
 突然の食事の誘い。僕はちらりと奏を見た。
「勝香さんが、姉が夕食一緒にどうかって」
「……是非とも、って伝えて」
「是非、だって」
『そう。じゃあ七時頃に待ってるから』
 電話が切れる。
 突然の食事の誘い。滅多にない事だ。
 一体どういう風の吹き回しだろう、と考えながら一週間前に相談した事が脳裏によぎる。
 まさか、直接問い詰めるつもりだろうか。
 そう考えて、ありえない、と考えなおす。姉は分別を弁えている筈だ。これは僕達夫婦の問題であって、姉が関与すべき問題ではない。
「お義姉さんと食事って久しぶりね」
 奏が柔和な笑みを浮かべる。女同士である為か、姉と奏はそこそこ仲が良い。僕がまだ実家に住んでいた頃から会っている為、かれこれ三年ほどの付き合いになる。
「楽しみ」
 嬉しそうにする奏とは反対に、僕は何となく嫌な予感がして憂鬱な気分になった。


4.
 約束の午後七時前。今は誰も使っていない実家の駐車場に車を停めた。
 二年前に母も亡くなり、現在は実家に姉一人しか住んでいない。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに姉が出てきた。
「おう、きたな。上がれ上がれ。奏さんも遠慮なくどうぞ」
 懐かしい玄関。僕が二十三年間過ごした時と変わらぬ風景がそこにあった。
「おじゃまします」
 後ろから奏の声。僕たちは玄関を上がると、そのままリビングに向かった。
「とりあえず焼肉にしたんだけどさ」
 既に準備が完了しているらしく、僕たちは姉に促されるがままに席についた。
「で、今日はどうしたの?」
 たずねると、姉は肉を焼きながら肩を竦めた。
「一人で焼肉ってのも悲しいだろ。道連れだよ、道連れ」
 一人で食べるのは虚しいから、と姉は言いながら僕を見る。
「あんたも全然戻ってこないしな。たまには戻ってこいよ」
「いい年して何言ってるんだ」
 軽く言い返すと、姉は薄い笑みを浮かべた。その笑みを見て、僕は悪寒を覚えた。
 相手を非難する時に見せる独特の笑みだ。僕が中学をさぼって遊び歩いていた時、帰宅した僕に対して姉は何気ない話を装いながらこの笑みを浮かべ、その次に僕を壁に叩きつけた。
 意図的な非に対し、姉は容赦をしない。
「割りと本気で戻って来ないかなと期待してるんだよ。例えば、離婚したりとかして、さ」
 その場が凍った。
「……勝香さん、言っていい事と悪い事が」
「黙ってろよ」
 姉の表情から感情が抜け落ち、低い声が出る。僕は思わず言葉を呑み込んだ。
「なあ、奏さん。一週間前にこいつから相談受けたんだよ。最近避けられる気がするってさ」
「勝香さん!」
 僕の静止の言葉を無視するように、姉は言葉を続ける。
「私は典型的な浮気の症状だと思った。こいつは疑いながらも確認する事を怖がってたが、新婚で浮気する奴なんてこれからも繰り返すに決まってる。本当に浮気をしてるなら無理やりでも引き剥がすべきだと思った」
 とくん、と心臓が跳ねる。
 それ以上、聞きたくなかった。
 聞けば、戻れなくなる。取り返しがつかなくなる。
 隣では奏が青い顔をしていた。
「悪いけど興信所に依頼して、十日間調査してもらった。結果はシロだった」
「え?」
 姉の激昂ぶりから、黒なのだと思っていた僕は思わず拍子抜けした。しかし、姉の怒りは収まる様子がない。
「人によって会うペースは違うだろうが、奏さん、あんたの場合は少数の交友関係に対して強い依存の傾向があった。あんた達が同棲するまでは、よく私にもべったりとしてたしな。浮気してるならもっと頻回に会ってるだろう。だから、シロだと判断した」
 で、と姉の視線が奏に向く。
「どういう理由で避けているわけ? なあ……もしかして既に妊娠しているのか?」
 妊娠。思いがけない単語に、まさか、という思いと、おかしくはない、という冷静な思考が同時に衝突した。
「妊娠を隠しているのか? それは、あんただけの問題じゃないだろ。もしそれが避けてる理由なら、一刻も早くこいつにも知らせるべきだ。だからお節介ながらも、今日こうやってわざわざ問い詰めているんだ。それは自分の都合で隠すべきことじゃないだろ。一体何ヶ月目だ?」
 奏は答えない。
 自然と彼女の腹部に視線がいく。膨らんではいない。しかし、妊娠直前まで全くわからない人もいると聞く。
「奏……?」
 問いに、奏は答えない。ただ、その顔は蒼白だった。
「なあ、先延ばしにしていい問題じゃないだろ」
 姉の怒気を孕んだ声。
 奏は一度強く目を瞑ると、ゆっくりと口を開いた。
「違うんです」
 僕も姉も、言葉の続きを待った。奏は目を開いて、震える声で言った。
「浮気なんて、してません。妊娠も、してません」
 姉の顔に怪訝な表情が浮かぶ。
「私、頭がおかしいんです」
 文脈を無視したような奏の言葉。僕は言葉の意図をうまく読めず、奏の目をじっと見つめていた。
「逆です。妊娠なんてしてません。ただ、妊娠したくなかったんです。子どもを、絶対に作りたくありませんでした」
 子どものことのついて、明確に話し合ったことはない。彼女のその意見は、僕にとって初耳だった。
 思いがけない答えに、僕は戸惑っていた。
「奏、それなら正直に言ってくれれば……」
「嫌われるのが、軽蔑されるのが嫌でした」
 奏は顔を伏せて、そう言う。
「……子どもを作るか作らないかは、自由だよ。そんなことで軽蔑なんて」
「違います。嫉妬してたんです、私。まだ作ってもいない子どもに嫉妬してたんです」
「……どういうこと?」
 思いがけない言葉に、理解が追いつかない。
「勝香さんの言ってる事、当たってます。依存の傾向があるって、その通りだと思います。子どもを産んだら、その分の愛情が子どもに向けられるじゃないですか。私への愛情が薄くなるじゃないですか。だから、子どもなんていらないと思っていました。子どもがいっぱい愛されて、私が放置されたら、私、多分、子どもを殺してしまいます。いざ結婚してみるとそんなことばかり考えて。ずっと避けてたんです」
 頭おかしいでしょ、私。そうやって奏は自嘲気味に笑った。
「子どもなんかに取られたくなかったんです。関心が全て私に向いていればいい、って思ったんです。一度そう思うと、もう止められなくて」
「……新婚早々そんなこと続ければ、夫婦生活が先に破綻するだろ」
 姉が厳しい目を向ける。奏は、はい、と頷いた。
「だから、それ以外では以前と変わらないように接しました。分かってもらえると勝手に思いました。自分勝手だと、私自身思います」
 沈黙が落ちた。
 何かを言うべきだった。奏が心の内を吐露したのだから、僕はそれに答えるべきだった。
 でも、言葉が出なかった。適切な言葉を探しているうちに、彼女が言葉を繋げる。
「どうしても子どもが欲しいって言われれば、私も頑張るつもりでした。でも、自信が、ないんです」
 奏はそう言って、僕を見る。
「あー……後はあんた達の問題だし、帰ってよく話しあえば? 私の勘違いで、すまなかった。ごめん」
 姉は気まずそうに言ってから、ゆっくりと立ち上がって奏の前まで進んだ。そして、勢い良く奏での胸元を掴む。
「ただし、自分勝手な要求ばっかり通してこいつの幸せ考えられないようなら別れろよ、お前」
「勝香さん!」
 咄嗟に、姉の腕を振り払い奏から引き離す。姉は驚いたように僕を見た後、バツが悪そうに言った。
「悪かったよ」
 少しだけ寂しそうな姉の顔が、妙に印象に残った。


 実家からの帰路。
 信号待ちの中、車内には沈黙が続いていた。
 僕は助手席の奏をちらりと見て、会話の糸口を探していた。
「ずっと、嫌われたと思ってたよ」
 迷った挙句、素直に思っていた事を口にする。
「……ごめんなさい」
「いや、安心した。うん、まあ、僕たちはまだ二十五だし、奏の決心がつくまで子どもはいいんじゃないかな」
「……決心なんてつかないかも」
「いいよ、それでも。僕だって絶対に子どもが欲しいって訳じゃない。いつまでも二人だけで過ごすのも悪くない」
「……そう」
 沈黙。信号はまだ赤のままだ。
「関心が子どもに向くのが、そんなに怖い? どちらかと言えば、子どもにかかりっきりになるのは女性の方じゃないかな」
「とても恐ろしい。例えば、このまま交通事故になって、あなたが動けなくなれば私が二十四時間独占できるのに、と考えてしまうくらいに」
 真顔で奏が言う。僕は思わず身を硬くした。
「ちょっと怖い例えだね、それは」
 それを聞いた奏は私をじっと見て、薄い笑みを浮かべた。
「そう。怖いくらいに、あなたが好き」
「……何事もほどほどが大事だと思う」
 信号が青になる。アクセルを踏み、ゆっくりと車速をあげる。
 見通しの悪い夜道を、僕たちは前へ進んでいく。遠くは見えないが、近くはヘッドライトが照らしてくれる。安全運転をしていれば、少なくとも事故を起こす心配はない。今はそれだけで十分だった。いつかは、家に辿り着く。
 帰ろう。僕達二人だけの家へ。


5.
 光が、眩しい。
 広がる草地には、地面を這うように赤紫色の花が咲いている。レンゲソウだ。
「綺麗」
 レンゲソウの群れに奏が魅入られたようにしゃがみこむ。
「それ雑草だよ」
「すぐにそういうことを言う」
 僕が茶化すように言うと、奏は僅かに不服そうに振り返って、それからもう一度レンゲソウを見た。
「本当に雑草? 整然と並んでるけど」
「それはちゃんと栽培してるんだと思う。昔、庭で父さんが育ててたよ」
 奏の隣にしゃがみこむ。レンゲソウが春風に揺れて、ほのかに草の香りがした。
「植物は生きるために窒素が必要だけど、空気中の窒素は取り入れられない。だから、普通は窒素肥料を使う。でも、このレンゲソウは自分で窒素を取り込むことができるんだって」
「窒素って確か空気の八割を占めるんじゃなかった? どうしてそのまま取り込めないの」
 彼女の疑問に、僕は少し考えてから降参の意を示した。
「そこまでは知らない」
「中途半端な雑学」
 呆れるように奏は言って、レンゲソウの花を見つめる。
「雑な知識じゃないと雑学じゃないと思うんだ」
「あ、そうかもしれない」
 妙なところで納得を見せる奏。
「雑な話の続きをするけど、レンゲソウの根に住んでる微生物は空気中の窒素から窒素肥料を作り出せるんだって。だから、レンゲソウは肥料がいらない。どんどん自分で窒素肥料を作って貯めこむ。そのままレンゲソウを土に混ぜると土が肥えて、次の草花が成長しやすくなる。だから、雑草だけどこうやって人工的に栽培するんだって。昔は田んぼでもよくあったらしいよ」
「……このレンゲソウたちは、次の草花の犠牲になるために育てられてるの?」
 不意に、奏の表情に陰が落ちた。
「次のために。それって、そんなに重要なのかしら。次へ次へ。そうやって繋いで、何の意味があるの。それは一体どこへいくの。その果てに何があるの」
 僕達が結婚して一年と少しが過ぎた。最近、子どもはまだか、と奏の方の親からよく言われるらしい。子どもを作る意志がないことを、まだ向こうの親には伝えていない。
「奏、別にレンゲソウはそれだけの為に育てられるわけではないよ。鑑賞することを目的としたレンゲソウ畑だってある」
 僕の言葉を無視するように、奏が立ち上がる。
「ねえ、空気中の窒素は八十パーセントくらいでしょう。それでも植物がそれを肥料にできないのは、きっとそれでも足りないからじゃない」
 唐突な話に、僕はまじまじと奏を見上げた。太陽が眩しい。
「九十パーセントなら、あるいは百パーセントなら、肥料なんていらないのかもしれない。次の草花の為にレンゲソウが必要になることもないかもしれない。そうしたらきっと、鑑賞だけの目的でレンゲソウたちは自由に花を咲かせることができるのに」
「それだと、人間が生きられないんじゃないかな」
 僕の言葉に、奏は嬉しそうに笑った。
「それでいい。何もかも全部切り捨てて、何もかも破壊して。自由になれたらいいのに。たった一つの、大事な事とともに堕ちていければいい」
 ねえ、と奏がしゃがんでいた僕に手を伸ばす。僕がその手をとった瞬間、彼女はふざけるように力を抜いた。突然の事に彼女を引っ張る形で後ろに倒れこむ。
 倒れこむ奏を受け止める寸前、彼女は少女のように無邪気な笑みを浮かべて言った。
「出会った時から、私はずっと。このまま、どこまでも」
 柔らかい草と土が、僕達を包み込んだ。僕達の隣にはそよそよと春風に揺れるレンゲソウが咲き誇り、あらゆるしがらみを無視して太陽に向かって真っ直ぐと堕ちていく。どこまでも堕ちていく。

inserted by FC2 system